近代日本における合掌観の変遷
五 『大法輪』と合掌
本章では、『大法輪』がいかに「合掌」を推進していったのかを、同誌の記事より検討していく2929本章の内容の一部は拙稿「メディアによる行の宗教の形成―仏教系雑誌に見られる身体実践―」『駒澤大学仏教学部論集』五四号、二〇二三年一〇月、「三 『大法輪』と行の宗教」、「四 『大法輪』の「合掌運動」と国家総動員体制」の内容と一部重複する。。
石原俊明(一八八八~一九七三)は、四才の時母を亡くして曹洞宗の寺院で育てられた。一六才で上京し出版事業に携わり、一九二一(大正一〇)年、『科学知識』を創刊した。翌年、国際情報社から月刊グラフ雑誌『国際写真情報』を創刊し、大きな収益を上げる3030小山弘利「宗教誌訪問② 『大法輪』小山弘利氏に聞く」『福神』二号、一九九九年一二月、一六七頁。。
石原は、寺で育った恩返しとして、仏教を広めるため、一九三四(昭和九)年、国際情報社より『大法輪』を出版した。本誌は、「仏教といふ立場に立ち、一宗一派に偏せず、各宗に亘つての記事を、循環的に掲載し、以て仏法の法悦に、遍くしたつて頂きたい3131大法輪閣「全日本の仏教信仰の皆様に御願ひします」『大法輪』一巻三号、一九三四年一二月、頁記載なし。」という理念を持っていた。
販売に関して、当初は『キング』『日の出』と同様に毎月三日に発売であった。しかし、雑誌協会から、本誌には仏教の記事が載っているため、大衆雑誌と認めることは出来ないと理由付けされ、一九三五年一月号より発売日が一九日に変更となった。
また、同年四月号からは、広告によって購買心を唆すものではないため、本社からの直接購読者か、地方の大法輪会支部または全国の各書店に、予約した申込者にのみ頒布することとなった。この方法によって余分な印刷を控え、予算を雑誌内容の充実に回した。
このような経緯と販売路線をとった『大法輪』では、特派記者が現地に取材し、写真とともに様子を伝える記事が大きな特色であった。
一九三六年一月の三巻一号に掲載された「―農村更正の指標―豆南の光明郷 合掌村を訪ねて」は、特派記者渡辺春秋による、静岡県賀茂郡三坂村の合掌実践に関する記事である。
炭と魚貝を特産品とする三坂村では、第一次世界大戦の特需ののち、貧窮に陥った。その状況を打破するため、一八年前に晋住した曹洞宗吉祥院住職小林義正と五年前に晋住した臨済宗海蔵院住職大野玄峰、村の小学校教員が先導して、村民と共に「合掌の生活」を実践した。当初の苦労を小林義正は、こう語る。
食事前後に合掌せよと提唱した時には、自分で働いて食べるのに何の合掌が要るかと憤慨する人もありましたが、次第に私の説を理解する人が多くなつて、昭和八年度からは小学校の校是となり、翌九年には村是となつて、あの村信条が初めて世に出たのです。村では経済更生委員会を作つて、五ヶ年の計画を立てゝゐますが、教化の方面を受持つ私共は、合掌村三ヶ年計画運動を進めてゐるのです3232渡辺春秋「―農村更正の指標―豆南の光明郷 合掌村を訪ねて」『大法輪』三巻一号、一九三六年一月、五六頁。。
当初は食事の際の合掌に対して、自分で労働して得た食事になぜ感謝しなければならないのか、といった疑問が多かったようだ。しかし、小林の説明を受け広まると、昭和八年度から合掌は小学校でも取り入れられた。その様子として記事では、三坂小学校の校庭での合掌礼拝や、禅宗で用いられる「五観の偈」を読誦する昼食前の児童が写真で示されている(図3)。そして、翌年には学校から村全体へ合掌運動は拡大し、「働きつつ、考へつつ、拝みつつ3333同上、四五頁。」という信条が生まれた。村の経済更生とともに、小林や大野は三ヶ年計画で合掌運動を推進しているという。