空海の曼荼羅思想(2/2ページ)
元東洋大学長 竹村牧男氏
よって次の「即身成仏頌」第二句の、「四種曼荼各不離」は、各身に有るという四種曼荼羅が、相互に離れないという意味まで受け止められよう。実際、次の第三句、「三密加持速疾顕」の説明には、「一 一の尊等に刹塵の三密を具して、互相に加入し、彼れ此れ摂持せり。衆生の三密も亦復た是の如し。故に三密加持と名づく」(同前、二五頁)とある。このように、各尊等は、無数の三密を具しており、しかもそれらは「互相に加入し、彼れ此れ摂持」しているのだという。のみならず、「衆生の三密も亦復た是の如し」ともあった。それは衆生にも、もとより四種法身が内在しており、その活動が潜んでいるからであろう。こうして、諸仏・諸尊・諸衆生の三密は、「互相に加入し、彼れ此れ摂持」しているのである。
一般に三密と言えば、自己の身・語・意の活動を意味するであろう。しかし自他の三密が「互相に加入し、彼此摂持」しているなら、自己の三密に一切他者の三密が渉入相応していることになる。したがって、自他一切の三密ともいうべき四種曼荼羅が自己に有ることはけっして不思議なことではない。『十住心論』の「帰敬頌」にも、空海は「是の如くの自他の四法身は、法然として輪円せる我が三密なり、天珠のごとく渉入して虚空に遍じ、重重無碍にして刹塵を過ぎたり」と歌っていた。実に自他の四法身の活動〈三密〉のすべてが、もとより我が三密そのものであると言っている。
ここを『太上天皇灌頂文』には、次のように示している。
摂持とは、入我我入なり。自塵数の仏、能く他心の仏に入り、他心の塵数の仏、能く自心の仏に入る。彼此互いに能持所持と為る。能く此の理を観ずれば、自他善悪の心を摂持す。故に之に名づく。(『定本』第五巻、二二頁)
このように、三密加持における「入我我入」ということは、ただ自己と単に一人の大日如来の間だけということではなく、「自塵数の仏、能く他心の仏に入り、他心の塵数の仏、能く自心の仏に入る。彼此互いに能持所持と為る」ということなのである。実際には、仏のみとの間だけでなく、諸尊・諸衆生も含めたあらゆる他者との間で「彼此摂持」していようから、「自他善悪の心を摂持す」ということにもなるであろう。私が思うに、故に、戒を受け、実践していくことの大きな意義もある訳である。それは、自己の悪業が他者に加入し摂持されないためである。
こうして、「即身成仏頌」前半第四句には、「重重帝網のごとくなるを即身と名づく」と示されるのであった。「帝網」とは、因陀羅網のこと、前の「天珠」のこと、華厳宗において、重重無尽の関係にあることの譬喩として用いられるものである。なお、自己に一切の他者(の活動)を具しているとき、たとえば自己に具わるある他者のどの人にも、またその人以外のあらゆる他者が具わっていよう。また、その中のどの人にも、他のあらゆる他者が具わっていよう。
『華厳五教章』の十玄門の説明において、十銭を数える法の説明の中に、一に二・三・四ないし十が相入・相即しているとき、その二や三等の中にもまた一から十までが相入・相即しており、その一から十までのおのおのにまた一から十までが相入・相即していて、この関係はどこまでも展開し、無限となるとあるが、自他の関係においても、あたかも同様の構造となっていることが考えられる。
こうして自他の間に於ても、無限に一入一切・一切入一、一即一切・一切入一の関係が展開されているはずである。
ともあれ、この第四句の説明の冒頭には、「重重帝網名即身とは、是れ則ち譬喩を挙ぐ。以て諸尊の刹塵の三密の円融無礙なることを明かす」ともある(『定本』第三巻、二八頁)。のみならず、古来、この第四句は、第一句(体)・第二句(相)・第三句(用)のすべてが重重無尽に自己に具わっていることを明かすと解されてきたことを思うべきである。
いずれにせよ、空海が『十住心論』「秘密荘厳住心」冒頭に示す、いわば両部曼荼羅と四種曼荼羅の二重構造の曼荼羅世界は、第一に、けっして絵図のことではなく、各尊等の存在そのもののことなのであり、立体的である。第二に、各尊は三密を発揮していて、けっして静止的な世界でなく、動態的な世界である。しかも第三に、各尊の身および活動相互の関係は重重無尽である。空海における曼荼羅世界は、そのように立体的・動態的・重重無尽的なものなのである。
ここに、実に壮大な人間観がある。これが空海のいう秘密荘厳であり、秘密曼荼羅なのである。この自己の心の源底を自覚することが、密教の覚りなのであった。