空海の曼荼羅思想(1/2ページ)
元東洋大学長 竹村牧男氏
『大日経』は密教の覚りを「如実知自心」と示している。その究極を、空海は『秘密曼荼羅十住心論』「秘密荘厳住心」の冒頭に、次のように示している。
秘密荘厳住心といっぱ、即ち是れ究竟じて自心の源底を覚知し、実の如く自身の数量を証悟するなり。謂わ所る、胎蔵海会の曼荼羅、金剛界会の曼荼羅、金剛頂十八会の曼荼羅、是れなり。是の如くの曼荼羅に、各各に四種曼荼羅・四智印等有り。四種と言っぱ、摩訶と三昧耶と達磨と羯磨と是れなり。是の如き四種曼荼羅、其の数無量なり。刹塵も喩に非ず、海滴も何ぞ比せん。(『定本』第二巻、三〇七頁)
ここの胎蔵海会の曼荼羅、金剛界会の曼荼羅(および金剛頂十八会の曼荼羅)は、いわゆる両部の曼荼羅である。さらにその曼荼羅とは別に、「摩訶(大)と三昧耶と達磨(法)と羯磨」の四種曼荼羅(四種智印は、曼荼羅を主観の側で認知したもの。曼荼羅と一体と見てよい)があることも明かされている。このように、いわば両部曼荼羅と四種曼荼羅の二種類の曼荼羅によって、自心の源底の様子が明かされているのである。
この中、四種曼荼羅とは何か。今、詳細は省くが、大曼荼羅は自他一切の身像のすべて、三昧耶曼荼羅は自他一切の意向のすべて、法曼荼羅は自他一切の言語表現のすべて、羯磨曼荼羅は、それらの活動のすべて、と言っておく。いわば、自他の三密のすべてである。
もちろん、それらを絵図に描いたもの、さらには彫像等により表現したものも、曼荼羅であるが、それ以前に存在している当体そのものが、曼荼羅なのである。
この二つの曼荼羅の関係について、前の文には、両部曼荼羅の各各に四種曼荼羅が有るとあった。すなわち、無数の諸仏・諸尊等がいて(胎蔵・金剛界曼荼羅)、そのおのおのが四種曼荼羅を有しているという、いわば曼荼羅の二重構造がここにあることになる。
『十住心論』は、この後、『大日経』「百字果相応品」にある「三三昧耶句」の語について、「謂く、三三昧耶とは、一には仏部三昧耶、二には蓮華部三昧耶、三には金剛部三昧耶なり。是の如くの三部の諸尊、其の数無量なり。一 一の諸尊に各の四種曼荼羅を具す。仏部は即ち身密、法部は即ち語密、金剛部は即ち心密なり」(『定本』第二巻、三〇八頁)と解説している。
他にも、たとえば『太上天皇灌頂文』には、「三部とは、仏、蓮、金、是れなり。此の三部の仏、各の四種曼荼羅、四種法身を具す」(『定本』第五巻、二一頁)とある。とすれば、両部曼荼羅を構成する諸仏諸尊のおのおのに四種曼荼羅があるということに、間違いはないであろう。
しかもその全体が、自己の心の源底にあるというのである。
一方、『即身成仏義』によれば、その「即身成仏頌」の前半第一句、「六大無礙常瑜伽」の意味に関して、最終的に、「是の如くの六大の法界体性所成の身は、無障無礙にして、互相(たがい)に渉入し相応せり。常住不変にして、同じく実際に住す。故に頌に、六大無礙常瑜伽、と曰う」と示されるのであった。法界体性所成の各身は、常に変わらず互いに「渉入」し、「相応」しているのであって、この「相応渉入」が「即身成仏」の「即身」の「即」の意味であると明かしている。(『定本』第三巻、二三~二四頁)