公的領域における宗教 ― 他界的価値と社会的合法性(2/2ページ)
筑波大名誉教授 津城匡徹(寛文)氏
「公共性(圏)」という言葉は、この半世紀ほど政治社会学的な概念として、研ぎ澄まされてきた。私が近著で強調したのは、公共性の射程は「社会」にとどまるものではなく、「他界」にまで拡張しなければ不十分である、ということである。もっとも有名なハーバーマスの公共性論は、ある時期から宗教を考慮せざるをえなくなった。広く影響を与えたウォーラーステインの「世界システム」論は、原理主義的な宗教の介入を受けた社会をまったく説明できないことを告白した。社会科学の頂点に位置するこの二つの挫折をみるだけでも、「他界的なもの」を考慮しない、「社会的なもの」に限定した公共性論と、それに基づく合法性論は、致命的に射程が狭いことがわかる。
今「他界的なもの」を考慮せず「社会的なもの」に限定した「公共性」論は、射程が狭いと述べたのは、宗教(研究)以外からは出てこない、耳慣れない指摘であろう。高度な宗教思想で語られてきた「根源」「神」「無」「天」など、極限の存在や領域は、より拡大した公共性(公共圏、公的領域)を成しているし、そこまで広げなくとも、古今東西の宗教で語られてきた死者や死後の世界、つまり「もっとも近い他界としての死後生」を考慮しなければ、「公共性」も「スピリチュアリティ」も「合法性」も、この地上という狭隘な世界のローカルな規範であることを、免れない。それはちょうど、私的領域の内規や掟が、上位の公的領域からみれば、限定的な効力しかもたないのと、同様である。
近代化にともない、社会意識として、死者や死後世界のリアリティが衰弱してきており、それは「死(後)」の専門家であるべき宗教者の意識においてすら、例外ではない。ただし日本では、2011年3月11日の大震災以来、そのリアリティが高まっているようにも思われる。この「もっとも近い他界としての死後世界」に対する普遍的なセンスを、より多くの人が健全に養うことで、社会から他界におよぶ、より射程の大きい「公共性」「スピリチュアリティ」「合法性」が構築されていくのではないかと思う。
他界的な価値を第一とする宗教で、急進的な団体や個人が犯しがちなこととして、国家的・社会的な諸法を軽んじ、あるいは敢えて破ることがある。宗教革命は、その極限である。宗教にかぎらず、「革命」は一般的に超法規的である。悪にまみれた「現世」を一掃しようという考えは、終末論にとっては魅力的でもあるが、預言者が宣言しているように、社会から他界までに渡るあらゆる法は、「廃止」されるのではなく、「完成」(浄化、洗練)されねばならない。少なくとも手段は、目指す目的がなんであれ、社会的にも他界的にも、最大限に合法的、平和的でなければならない。
近代日本でも、大小の宗教団体の絡んだ、大小の事件が起こってきた。市民社会レベルでは、それらに対する「カルト」対策も、法曹界から提案されてきた。一つの取り組みとして、日本弁護士連合会が作成した良質なハンドブック、『宗教トラブルの予防・救済の手引』(1999年刊)が出版され、関連した内容として、「意見書 反社会的な宗教的活動にかかわる消費者被害等の救済の指針」のPDF版がウェブ上に公開されている。どちらも具体的で実効的な提言にもかかわらず、政府や自治体側にも、宗教団体側にも、周知されているとはいえない。これらを参考に、職員、信徒、関係先の一般市民に、加害も被害も起こらないよう、心ある宗教者の日常的な配慮が求められる。
法律は最低限の道徳、と言われる。日常で問題化する宗教団体や「スピリチュアル」は、あらゆる法から見て合法的とは言いがたい。一定以上のレベルの宗教を実践している個人や団体に対しては、社会として、さらに期待すべきことはない。他方、「殺してはならない」「盗んではならない」「騙してはならない」などなど、人として最低限の黄金律さえも犯す宗教は、「あまりにもあきらかに悪いものだから、それを論証してよろこぶのは、時間の浪費」(ルソー「市民の宗教について」)とはいえ、くりかえし事件が起こってくるので、くりかえし注意を喚起する必要があると思う。