謎の禅者、今井福山について ― 近代日本の宗教≪17≫(2/2ページ)
曹洞宗自法寺住職 小栗隆博氏
さらに、高木宗監が今井福山から、その40年前に提供されたものとして、「大覚禅師素問普説録」なるものが収載されている。その内容としては、蘭渓道隆が常楽寺において北条時頼に説き示したという「人字説法章」「兵字説法章」「心字説法章」なるものからなっている。これは今井福山の『趣味禅並大覚禅師法語』(岐阜市寺町天澤庵内 第17教区宗務所、昭和6年)に収載されているものを転載したと考えられ、これもまた今井の著述以前には遡ることのできない資料である。
今井福山の著述の特徴として、さまざまな新事実について、その典拠を示しつつも、その典拠の存在が今井の著作内でしか確認できないか、あるいは今井の著作以前には全く存在が知られていないものが突如として出現するということが非常に多い。そしてそれらがこれまで知られてこなかったのは、関東大震災で鎌倉が壊滅したためであるなどの理由を述べることもしばしばあるのである。
筆者の自坊は岐阜県東濃地方の旧苗木藩領下にある。苗木藩では明治維新期の苛烈なる廃仏毀釈のため、藩主遠山家菩提寺雲林寺以下15カ寺すべての寺院が破壊され、その後は地域全体が神道に信仰を変えた村もあれば、寺院を復興させた地域、あるいは中津川市蛭川村のように、新しく「神国教」というここにしかない新宗教が大正の初めに興されたという興味深い村もある。
その蛭川村に今井福山が現れ、地域史の調査に携わったという記録が有る。『蛭川村史』(蛭川村史編纂委員会、昭和49年)中に、村に伝わる伝説を紹介する項で、南北朝期に後醍醐天皇の王子や子孫がこの村に隠れ住んだという、いわゆる親王伝説を紹介しており、そのための調査を大正14年から今井福山が依頼されたという。おそらくは南北朝正閏論の影響もあり、地域の村おこし的な意図もあったであろう村の指導者たちが熱心に調査に携わり、ついには南朝神社が建立されるに至った。
しかし今井の持参する資料などに疑義を呈した山本栄一という郷土史家があり、昭和14年ころまで今井との間に激しく論争が行われたという。山本は今井の提示する資料の矛盾点や、その資料をそれまで誰も目にしたことがなかった点を挙げ、それらが偽作ではないかとまで言い切っている。
今井福山の人となりについては、各所に大量に残されている遺墨に接するに、非常に書に通じ、好んだ人物であったようで、その書風は臨書を徹底的に学び、その精髄を身につけていたことが分かる。またたいへん子ども好きな人物であったようで、幼少時に今井福山に会ったことのある方たちは皆、よく菓子をもらったりかわいがってもらった印象を語られる。そしてその著述に接するに、今井の博覧強記ぶりには驚嘆するよりほかない。
しかしそこで、残念ながらも資料の隙間を、自らの創作で埋め込んでいくという著述の方法を用いているのである。そのために、そのことが却って後世の学者を惑わすほどの記事となって残されてしまったのである。筆者は『湘南葛藤録』を調べる過程で、この今井の手法にどれほど苦しめられたか分からない。
今井の生きた時代は、大正から昭和初期の、日本全体が文化的経済的に余裕のある状況下で、頼りになる知識人としての要請を受け、求められるままに自由に著述をしていたのかもしれない。だがやがて国全体が戦争に向かう中で誰もが余裕を失い、さらに終戦直前に亡くなったことで、時代の混乱と共にその存在を忘れ去られてしまったのであろう。
あまりにも謎の多い今井福山とは、大正末から昭和初期にかけての時代の要請により現れ出た人物であり、そしてその著述であったという捉え方では暴論であろうか。たとえ彼の残した著作群が、多大なる疑惑を孕むものであったとしても、少なくともこのころの時代の空気を感じることのできる史料ではあろうし、その特異な生き様は大変に興味深いものである。