謎の禅者、今井福山について ― 近代日本の宗教≪17≫(1/2ページ)
曹洞宗自法寺住職 小栗隆博氏
大正から昭和の初めにかけて、鎌倉建長寺と深く関わりを持ち、多くの著作、および雑誌記事の連載をし、当時一級の知識人として扱われていた今井福山という人物がいる。
筆者は、鎌倉の禅の公案集とされる『湘南葛藤録』についての調査の途上で、この人物の存在を知り、ありとあらゆる人名辞典等を調査したものの、その時点では筆者の調査の及ぶ範囲においては、その履歴をいっさい発見できなかった。
しかしながら著作物に関しては昭和20年までの禅仏教関係の雑誌媒体において、その名を目にしない月は無いというほどの名の知られた人物であったようである。
例えば、『大乗禅』(中央仏教社)に昭和8年から昭和20年まで、『正法輪』(正法輪協会→妙心寺)に昭和2年から昭和10年まで、『禅宗』(禅定窟→貝葉書院)に大正11年から昭和16年まで、『和光』(大本山建長寺)に大正7年から昭和16年の廃刊まで、『仏心』(萬松会、京都北野御前通一条下ル萬松寺)に昭和10年代に、それぞれ途中休載もあるが、ほぼ定期的に記事を連載している。いずれも当時の禅宗関係の代表的な雑誌に、錚々たる執筆陣とともに名を連ねている。このように、禅宗の近現代史を研究するものにとって、必ずその名を目にするであろう人物が今井福山なのである。
ここで、さまざまな調査で判明した今井福山の履歴を紹介する。生まれは安政元(1854)年、もとの名を土屋仲巖と称す。子孫の方によればおそらく愛知県名古屋市かあるいは一宮市辺りの出身であろうとされる。学歴に関しては、東京大学出身との記述が幾つか見られるものの、いずれも確定できる資料は発見できなかった。明治29年には、43歳にして浜松の方廣寺住職・今井東明の養子となっている。今井東明は、廃仏棄釈後から、明治14年の大火による伽藍焼失など、方廣寺の非常なる荒廃期を支え、また多くの弟子を有していたと伝えられている。あるいは今井福山もその弟子の一人であったのであろうか。
この後に、住所を東京に移しているが、このころに新聞記者として働き、海外の駐在経験も有していたとも子孫には伝えられている。大正5年、63歳ごろに伊豆に住所を移している。記者を退職した後に、当地で療養生活をしていたものであろうか。
大正7年に建長寺福山学院の教授となり、これ以降、さまざまな媒体に名が現れるようになる。なお、これまでは通名として「巖」を名乗っていたようであり、今井巖として当初は記載されているが、翌年には建長寺菅原時保の徒弟となり、福山の僧名を与えられたようである。建長寺の山号は巨福山であり、僧名としてこの文字を与えられ、さらに教師資格もほどなく授与されていることから、今井福山が建長寺において、いかに特別の扱いがなされていたかがうかがわれよう。
しかしながら大正12年の関東大震災以降は博多崇福寺、伊豆の諸寺院を転々とし、晩年は岐阜県揖斐郡の金光寺で過ごし、昭和20年1月26日に示寂した。数え92歳の長命であった。現在残されている著述の多くは、晩年の二十数年の間に書かれたものである。
今井福山の残した著述は膨大であるが、ここでその影響がどのようなものであったかを見てみたい。
まずは関係の深かった建長寺において、現在、蘭渓道隆の伝記として最もまとまったかたちで刊行されている、高木宗監『建長寺史 開山大覚禅師伝』(大本山建長寺、平成元年)を見てみたい。本書の序文および緒言によれば、これは建長寺史編纂事業の一環として成されたものであり、索引を含め全700頁の大著である。
位置づけとしては建長寺派にとって公式の開山伝と見なされる。同書中の蘭渓道隆の出自に関する記述には、従来の蘭渓の諸伝記にはいずれも記されていない、蘭渓の俗名、および父母の名前までが詳述されている。そしてその典拠として、雑誌『正法輪』の今井福山の記事を挙げている。しかしこの記事内容は出典が明らかではなく、信憑性は低い。