本願寺と能楽文化 ― 式能の伝統(2/2ページ)
真宗大谷派宗務所内事部嘱託 山口昭彦氏
東本願寺においては徳川将軍家との縁故により「式能」において「開口」を行うことを許されていたが、その結句は「法とかや」であった。ところが1861(文久元)年の宗祖600回御遠忌にあたり将軍家より同格の「時とかや」を特許され、以来その先例を踏襲してきたのである。
また今回の祝賀能では行われなかったが東西本願寺では演能を差配する「能奉行」の作法も継承されている。
東本願寺の「能奉行」は、烏帽子大紋の正装で、能舞台正面の階から舞台に上がり先ず「舞台改め」の式、次に橋掛一の松において揚幕に向かい「御能始めませ」の合図、「翁」の舞の後、小鼓方及び大鼓方に対して「御床几御免」の式を行うが、このような作法が残されているのは他には無いことであろう。
本願寺は第8代蓮如上人以来、能狂言を教化の「善巧方便」として盛んに行い、本願寺に仕えた僧侶・坊官も様々な年中行事の場において能を演じていた。特に戦国期から江戸初期の坊官であった下間少進は金春流の名手として知られ、『童舞抄』など多くの能に関する著作を残すとともに、豊臣秀吉や徳川家康の前で舞を披露し賞賛された。西本願寺の現存する日本最古の能舞台である国宝の北能舞台は、少進が家康から駿府城の能舞台を拝領し移築された舞台であると伝わっている。
東本願寺の能舞台は、1880(明治13)年の阿弥陀堂・御影堂の釿始式にあたり建てられたが、当初は簡素な組み立て式舞台であった。その後、1936(昭和11)年に白書院前へ固定され現在に至っている。昨年大晦日のNHK紅白歌合戦において歌手のAdoが、この能舞台から生中継で「唱」という曲を歌い放映されたことから、東本願寺の能舞台が若者にも知られるようになった。ちなみにAdoという名前は、狂言のアドに由来するそうである。
近世の東本願寺は金春流の能を伝統していたが、明治維新によって江戸幕府の式楽であった能が衰退の危機に瀕すると、西本願寺とともに能楽の保護に尽力した。現在、西本願寺は観世流(京観世)、東本願寺は金剛流が主となって能が行われる慣習となっている。
東本願寺では幕末から大蔵流茂山家の狂言を愛好し、明治になると句仏上人(大谷光演)が金剛謹之助に謡曲を習っていた。1911(明治44)年の宗祖650回御遠忌の「式能」は2回行われ、当代一流の名人が揃った空前絶後の演能であり、第1回の「式能」の記録によれば5月1日午前8時に始まり終演は翌日の午前2時40分であった。
東西本願寺には、能狂言の発展と保護に寄与してきた歴史があるが、室町時代から現代にいたる東西本願寺における能楽の歴史と伝統については、今後さらに研究が深められるべき課題であり、あまり知られていない東西本願寺の芸術文化を発信していく必要があると考える次第である。