日蓮遺文研究の最前線(2/2ページ)
東京大名誉教授 末木文美士氏
池田氏はさらに慎重に他の論拠も加えて検討し、偽撰説を唱えた。それに対して、花野氏は『法華問答正義抄』の説を絶対視できない等の理由から、偽撰説を批判している。なお、山上氏の著作には、『法華問答正義抄』の該当箇所の原文及び現代語訳を載せており、難解な原文理解の上で、大いに役に立つ。
私には、この問題に対していずれが適切か決定する力はないので、これ以上立ち入らない。ただ、両者の論争は不毛な相互批判に終わるものではなく、それを通してさまざまな問題が浮かび上がり、仏教史研究上に広範な影響を及ぼすように思われる。先に述べたように、止観勝法華説は日蓮教学のみならず。天台の本覚法門と密接に関わる問題であり、その方面からも十分な検討が必要である。『法華問答正義抄』には、叡山とは別に関東の尊海らが師資相承によりこの説を説いていたことも記されている。この側面も十分な検討が必要になるであろう。
日蓮個人の思想という観点からすれば、真偽判定をして、真撰の遺文のみ研究すればよいことになるが、別の観点から見ると、それで終わりではない。どのような門流でいつ作成され、どのように機能したかが解明されなければならない。この点で、山上氏が「日蓮偽撰遺文学」を提唱していることは注目される。このことは、氏が本紙「論」欄でも概略を述べているが、論文「日蓮仮託偽撰遺文の類型的分類試論」(『興風』34、2022)で立ち入った構想を記している。
それによれば、偽撰遺文とされるものはいくつかに類別され、それぞれの性格が論じられる。従来、真偽区分のみが重視され、偽撰とされたものは価値がないとされて、そのまま放置されていた。しかし、偽撰遺文もまた日蓮門流の展開において、ある場合には真撰と同等に扱われ、重要な役割を果たしたのであるから、その点から再評価されなければならない。
例えば、最蓮房宛の『諸法実相鈔』に明確に示され、その後、『御義口伝』などに継承される「凡夫本仏」の思想がある。釈迦仏は迹仏であり、真の本仏は我々凡夫に他ならないというものである。これは本覚思想的な発想ということができるが、単純な現状肯定の堕落思想と断罪するのは間違っている。そうではなく、凡夫である我々が信仰を一つにして積極的に活動していくことが、肯定的に評価されるのである。中世後期には、京都の町衆など新興の都市民の間に日蓮系の法華信仰が急激に広がり、彼らの活力の源になるが、そこではこのような凡夫の活動に価値を置く思想が大きな役割を果たしたと考えられる。
このような思想の源流は、日蓮の確実な真撰遺文の中に見られる。『観心本尊抄』では、一方では釈迦仏を外に実在する仏と見ながら、他方では一念三千論に基づいて、「釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり」と、釈迦も己心に含まれるとする。後者の面が強められれば、凡夫本仏論に移行することは不自然ではない。こう考えると、凡夫本仏の思想は日蓮自身に源流を持ちながら、その後の日蓮の門流の中で明確化され大きく発展して、社会的にも役割を果たしたとも言える。あえて言えば、日蓮の思想は日蓮個人で完結するものではなく、その門流まで巻き込んで発展する集団的な創造の営みと見ることもできる。
このように見てくると、日蓮自身の思想であるかどうかを判別する真偽論も重要には違いないが、そこにばかり焦点を当てて、厳密な線引きを唯一の課題と考えるのは、視野狭窄に陥る危険がある。
最蓮房関係遺文にしても、これだけのものをまとまって伝持した門下のグループがあったわけである。もしそれが彼らの純然たる創作とするならば、架空の人物を作り出し、矛盾なくその伝記や日蓮との関係を構想し、そこに高度な思想を盛り込む遺文群を作成したことになる。それはそれで驚嘆すべきことであり、その創造力を高く評価しなければならないだろう。
今日では、必ずしも真偽に還元されないテキスト群という観点から思想を読み取る方法が重視されるようになっている。例えば、初期仏教の文献から釈迦個人の思想を追求するのでなく、ある時間的スパンの中で形成されたものとして初期仏教の思想を考えるのである。日蓮遺文に関しても同様に、門流への展開というところまで含めて考えることにより、よりダイナミックにその思想を捉えることができるのではあるまいか。