日蓮遺文研究の最前線(1/2ページ)
東京大名誉教授 末木文美士氏
近年の日蓮遺文研究の進展には目を見張らされるところがある。とりわけ日興門流に連なる興風談所は、御書システムの提供や、雑誌『興風』及び『興風叢書』の刊行により新資料を提供するなど、手堅い文献学的な研究の面で注目すべき成果を上げている。他方、花野充道氏らは法華仏教研究会を興し、雑誌『法華仏教研究』に拠って活発な活動を展開している。どちらも大学などの公的な研究組織とは異なり、また大きな宗派に所属せずに、こうした研究が高度に進展しつつあることは、驚嘆に価する。外部の研究者にも門戸を開いて、清新な論考が寄稿されている。ただ、これらの雑誌は一般の大学図書館などに所蔵されていない場合も多いので、その活動が外部からはいささか見えにくいところがあり、その点に課題が残る。
山上弘道氏は興風談所の中心的な研究者の一人で、とりわけ日蓮遺文の真偽問題に専念してきたが、その成果が千頁を超える大著『日蓮遺文解題集成』(興風談所、2024)に集大成されたことは、まことに喜ばしい。本書については、著者の山上氏自身が本紙の8月30日号「論」欄にその概要と今後の課題を記しているが、改めて第三者的立場から本書を紹介するとともに、それが提起する問題について考えてみたい。
本書は500篇を超える日蓮遺文を、第Ⅰ類・真撰遺文398篇、第Ⅱ類・真偽未決遺文30篇、第Ⅲ類・偽撰遺文145篇に分けて、一篇ごとに詳細な解題を付している。真撰・真偽未決・偽撰の区分は、従来の分類を踏襲するのではなく、著者自身の見識に基づいている。それ故、解題と言っても一般読者向けに遺文の概要を示すのではなく、それぞれの遺文について、書誌学、文献学の面での専門的な検討を主としている。真撰遺文に関しては、真筆の確認や関連資料を詳細に取り上げ、さらにその著述年代の推定をも試みている。これらは今後の遺文研究の基礎となるものである。
本書がもっとも大きな問題を提起しているのは、著者独自の真撰・偽撰の分類である。とりわけ従来真偽の論が喧しい幾つかの遺文を、精細な検討の上で第Ⅲ類の偽撰遺文に分類したことは、著者の見識を示すとともに、今後さらに研究すべき大きな課題を提示することになった。
例えば、最蓮房関連の遺文15篇は、従来から真撰説・偽撰説がさまざまに提出されてきたが、著者はそれらをまとめて偽撰と断じている。中でも代表的な『立正観抄』に関しては、興風談所の池田令道氏が関連する新資料を発見して、偽撰説を唱えたのに対して、花野充道氏が真撰説の立場から批判を加え、そのやり取りが現在進行形で行われている。山上氏はこの論争を詳細に紹介し、最終的に池田氏に賛意を表して、本書を偽撰の部に入れたのである。この問題は、日蓮遺文だけでなく、中世天台の本覚法門の展開という面でも大きな意味を持つので、少し立ち入ってみたい。
『立正観抄』は、「法華止観同異決」と内題が付され、法華の迹門・本門よりも止観の方が優れているという止観勝法華説が批判されている。この説は、本覚法門において爾前→迹門→本門→止観と次第する四重興廃説の最終段階をなすものとして知られるが、その成立と日蓮との前後関係は微妙で、それが『立正観抄』の真偽問題と深く関わっている。
池田氏は新出の日全『法華問答正義抄』(『興風叢書』14)に着目する。その第22「法華与天台止観勝劣事」によると、止観勝法華説の創唱者は叡山無動寺の政海であり、日全はそのことを西谷の禅英から聞いたという。もしそうとすれば、日蓮より遅れることになり、この説を批判した『立正観抄』は偽書ということになる。