瑩山紹瑾禅師の俗姓について(2/2ページ)
愛知学院大教養部教授 菅原研州氏
梶川乾堂老師が明治44年(1911)に鴻盟社から編集・刊行された『新總持』では、「(瑩山禅師の)御伝記を案ずるに御俗姓は嵯峨源氏の末裔なる瓜生氏と申し」とされた通り、「瓜生氏」を「嵯峨源氏」だとしている。そして、總持寺独住第八世・栗山泰音禅師の著作として昭和13年(1938)に總持寺から刊行された『總持寺史』では、「藤氏」と「瓜生氏」という両方の記述があることを伝えつつ、「されど瓜生は嵯峨源氏であって藤氏ではない」と検討されている。その上で、昭和12年当時に總持寺監院であった孤峰智璨禅師(後に總持寺独住第一八世)が編集された『常済大師全集』では、巻頭に収録された「常済大師略伝」で「俗姓は瓜生氏、南朝の忠臣越前杣山の城主たる瓜生判官保卿の同族にして、其の先は藤原氏とす」とされ、先に挙げた畔上禅師の御見解を承けた主張を行った。つまり、「藤氏」か「瓜生氏」か、あるいは「瓜生氏」が「藤氏」なのか「嵯峨源氏」なのかで、複数の見解が同時代的に存在したのである。
それでは、瑩山禅師の俗姓は何れだったのか。
既に「藤氏」または「瓜生氏」という二つの見解が併記されてきた状況を見たが、実はもう一つの見解があった。それは、「不明」である。總持寺を、明治期の火災からの復興を企図して、石川県輪島市内(總持寺祖院が所在)から神奈川県横浜市鶴見区内に移転した石川素童禅師(總持寺独住第四世)が提唱された『伝光録白字弁』(總持寺・大正14年)では、本来の一仏五十二祖の『伝光録』に加えて、その後の祖師方である徹通義介禅師・瑩山禅師・峨山韶碩禅師についても悟則や行実を御提唱されたことで知られるが、その内、瑩山禅師の俗姓は何も指摘されていない。また、同年に總持寺から刊行された伊藤道海禅師(總持寺独住第九世)御編集『常済大師御伝記』では積極的に「氏族を説き給はず」とされたのであった。
瑩山禅師の氏族不明の見解は、いわゆる『洞谷記』及び関係文書の研究に基づいており、特に『常済大師御伝記』はその研究成果であるといえる。『洞谷記』は瑩山禅師に係る文書を集め、特に現在の石川県羽咋市に所在する洞谷山永光寺の草創記などが収録されている。永享4年(1432)に英龍によって書写された古写本と、享保3年(1718)に加賀大乘寺三三世・智灯照玄禅師によって、大乘寺と永光寺の室中に伝承されていた古本でもって編集された流布本(及びその再写本)などが存在している。
『洞谷記』には瑩山禅師による自叙伝と評される文章が複数掲載されており、中でも御自身の御生誕に関わる記述とされているのが、「円通寺縁起」と称される一節で、永光寺の勝蓮峰に建立された尼寺の開創説話の中に、幼名だと判断されている「行生」と、産所が「越前国多禰観音の敷地」であったことが記されている。更に、「行業記」とも称される文書では、前世からの因縁などを語りつつ、御自身が北国に生まれ、「白山の氏子」であることなどを示される一方で、御自身の氏姓は示されなかったのである。
これは、初期曹洞宗教団の中では珍しいといえ、瑩山禅師に係る文書『洞谷伝灯院五老悟則并行業略記』(流布本『洞谷記』所収)では永光寺に建立した五老峰伝灯院に祀られた5人の祖師方の紹介で、道元禅師は源氏(村上源氏)、懐奘禅師は藤氏(九條家)、義介禅師も藤氏(利仁将軍の遠孫)とされている。つまり、瑩山禅師には祖師方の氏姓を開示することについて、躊躇する理由は無かったといって良い。そうであるにも関わらず、御自身の氏姓を示されなかったのは、それ相応の理由があったと拝察されるが、現段階では良く分からないといえる。『常済大師御伝記』で伊藤禅師は、瑩山禅師の御伝記を示されつつ氏姓を誇ることは禅僧にあってはならないと御垂示された。瑩山禅師は『伝光録』にて、天童如浄禅師御生前の名利心否定の勝躅を讃歎しておられるため、氏姓を提示されなかったことも、名聞利養の否定として頂戴しておくべきであろうか。
以上から、瑩山禅師の俗姓についての伝承は、藤氏・瓜生氏・不明という3種類があることを確認した。そして、不明の見解は、例えば応永6年(1399)に著された天性禅師『仏祖正伝記』でも同様で、更に『洞谷記』関連文書に基づいて編まれたであろう『洞谷五祖行実』「洞谷第一祖勅諡仏慈禅師瑩山和尚行実」では「未だ嘗て氏族を説かざるなり」ともされる。よって、一定の影響はあったはずだが、江戸時代以降には藤氏、明治時代以降では瓜生氏とも記述されるに至った。その理由は、胡乱な推測を許すものでは無いけれども、各時代毎に瑩山禅師の顕彰をされた結果であると拝しておきたい。