《部派仏教研究の現状と展開②》実在論と空のはざまで(2/2ページ)
筑波大人文社会系助教 横山剛氏
そのような中で、ダルマの自性が否定される点は、同論が有部論書と一線を画する特徴であるといえよう。それでは、そもそもなぜ、中観派の立場から有部のダルマの体系を説く必要があったのか。同論の冒頭の偈頌はその著作目的を「明瞭な思考力を持たない者たちの知を開くため」とする。さらに同論において約2割の分量を占める智慧のダルマの解説では、知を身につけることの効用が示される。はじめに智慧がダルマを分析することであると定義される。この定義自体は有部も採用するものであるが、この後に解説は徐々に中観派の教えへと引き付けられてゆく。
知を身につけた人は、物事を構成要素に分解してそこに何らかの本体があるかを分析することで、あらゆる事物に本体がないことを理解するとされる。その様子はバナナの木の幹を剥くことに譬えられる。バナナの木はたくさんの葉が寄せ集まってできており、それが幹のように見える。それらの葉をひとつひとつ取り除いていけば、そこには何も残らない。つまり、知を身につけることで、あらゆる事物が複数の構成要素の関係性(これを仏教では縁起という)の上に成り立っていることを分析できるようになり、その結果、それらの事物が本体を欠くということ、すなわち空であることを理解するということである。
このように『中観五蘊論』は、仏教の教えに精通しない者たちを空の教えに導くための入り口として著された文献である。そしてそのことから、中観派において、有部が説くダルマの体系が仏教徒がはじめに学ぶべき基礎学として位置付けられていることが知られる。これはダルマの体系が有部の実在論の基礎をなす実在要素の体系であるにとどまらず、仏教における主要な教理概念を整理した一覧という性格を併せ持つことに由来する。
『中観五蘊論』は空の教えを理解するためのすぐれた入門書として初学者たちに学ばれるだけでなく、後代にも影響を与えた。先にも述べた通り、インド仏教の最後期に属する学匠であるアバヤーカラグプタがその著書『牟尼意趣荘厳』においてダルマの体系を解説する際には『中観五蘊論』の教説を借用する。そして、その教説はアバヤーカラグプタと同じ系譜に属するさらに後代の論師であるダシャバラシュリーミトラ(12世紀頃)の『有為無為決択』へと受け継がれることになる。
このように有部のダルマの体系がインド仏教の最後期へと継承される際に『中観五蘊論』は重要な役割を担っている。その流れが大乗仏教徒の説く有部説を経由している点は、大乗仏教が栄えていた当時のインド仏教の状況を反映していると言えよう。
『中観五蘊論』に関する大きな問題のひとつに著者問題がある。同論のアビダルマ的な性格があまりに強いために、一部の研究者はその著者が本当に中観派の論師であるチャンドラキールティであるのか疑問視する。同様の疑念はチベット仏教の伝統においても見られる。
この点について、筆者はいくつかの論文において、先行研究の指摘やチベット仏教における理解を批判的に検討するとともに、チャンドラキールティの真作を裏付ける複数の根拠を提示した。また、著者に関するこのような疑問が生じる背景として、ダルマの体系を有部の実在論から一義的に理解しようとする現代の研究者の見方や、チベットにおける伝統的なチャンドラキールティ理解があることを指摘した。
『中観五蘊論』に関する諸問題について筆者はこれまで複数の論文において、様々な観点から考察を行ってきた。
2021年には、同論の初の全訳である『全訳 チャンドラキールティ 中観五蘊論』を刊行した(品切れ)。また、その続編に相当する『チャンドラキールティ 中観五蘊論の研究』を刊行することが決定している(9月25日刊行予定)。ここでは同論の思想研究の成果をまとめて示すとともに、同論のチベット語訳の校訂テキストを提示する。
以上の研究書の刊行をもって筆者の『中観五蘊論』研究は一つの区切りを迎える。今後は有部が説くダルマの体系に多様な側面を与えたアビダルマという知的営為そのものに注目し、その機能を研究することを予定している。