問われる国家と宗教の関係 大嘗祭を前に(3/3ページ)
北海道大准教授 西村裕一氏
象徴天皇制と政教分離
日本国憲法は、憲法20条および89条において、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味する政教分離原則を定めているところ、日本国憲法がかかる原則を定めた背景には、明治憲法下の日本においては「国家神道」に国教的な地位が与えられており、その結果として信教の自由が不完全にしか保障されていなかったという現実がある――最高裁による以上のような説明には、憲法学においても広い合意があると言えよう。
もっとも、村上重良の議論とも軌を一にするこのような「国家神道」理解には、周知のとおり、歴史学や宗教学においてすでに多くの問題点が指摘されている。そのため、そのような「国家神道」理解を無批判に継承するかに見える憲法学に対しても、批判の刃が向けられ得ることは否定できないであろう(須賀博志)。
とはいえ、戦前の日本において、「キリスト教の機能的等価物としての天皇制」(三谷太一郎)が国民の内心の自由を広範に抑圧したという事実に、疑いを差し挟む余地はない。そうである以上、それを「国家神道」と呼ぶか否かは別として、明治憲法下の政教関係を変革しようとした日本国憲法における政教分離規定の射程が天皇制にまで及ぶことを、否定する必要はないように思われる。
実際、日本における政教分離の「原点」である「神道指令」は、「日本ノ天皇ハソノ家系、血統或ハ特殊ナル起源ノ故ニ他国ノ元首ニ優ルトスル主義」を包含する、「軍国主義的乃至過激ナル国家主義的『イデオロギー』ノ宣伝、弘布」を禁じていた。それゆえ、佐々木弘通が指摘するように、日本における政教分離は、憲法第2章の平和主義および憲法第1章の象徴天皇制との密接な関連の中で理解されなければならない。
換言すれば、日本国憲法が定める政教分離規定の趣旨は、第2章および第1章と一体となって、日本社会を「天皇=軍=神というタブー」から解放するという点にあったのである(樋口陽一)。このように見ると、憲法学が天皇制と政教分離とを不離一体の関係にあると考えていることにも、十分な理由があると言えよう。
もちろん、「神権天皇制」から「象徴天皇制」への変化に伴い、明治憲法下の政教関係も変容を被らざるを得ない。ところが、昭和天皇の死去に伴う代替わりの儀式は、「天皇と政教分離」という問題が日本国憲法下においてもなお未解決のままであることを、憲法学界に知らしめることとなった(斎藤一久)。この問題に係る論点を網羅的に追跡する紙幅はないが、今回の代替わりとの関係上、大嘗祭への公金(宮廷費)支出については違憲説が有力であることだけをここでは確認しておきたい。これは、政府自身も大嘗祭が「宗教上の儀式としての性格を有する」ことを認めている以上、政教分離原則から当然に導かれる結論のはずである。
それに対し、神道儀式である大嘗祭に「公的性格」を付与するという政府の態度は、「私的行為」としてのみ許されるはずの皇室祭祀が公知のものとなっている現状と併せて、一宗教にすぎない神社神道を国家が援助・助長するものであると言わざるを得ないであろう。その意味において、戦後もなお皇室祭祀や天皇崇敬と神社神道との結合が残存していることに注意を喚起する島薗進の議論は、ここでも「国家神道」という用語選択の適否を一まず措くとすれば、憲法学の観点からはきわめて説得的であるように思われる。
そもそも、日本において政教分離が問題になった事例は、そのほとんどが神社を一方当事者とするものであった。それらの事案は、概ね、日本社会における多数派である神社が少数派に属する者の信教の自由を侵害するという図式を描いており、最高裁もそのような「精神世界における多数派への同調要求」(芹沢斉)を追認する傾向にある。しかし、それを正当化するために援用されるのは、結局のところ、神社神道に基づく儀式を行うことやそれに参列することは「宗教的意義」が希薄化した「世俗的行事」ないし「社会的儀礼」であるという「社会通念」にすぎない。
ここに表れているのは、自分たちが「非宗教」ないし「無宗教」であると思い込むあまり、「宗教的な潔癖さの鋭い少数者」(自衛官合祀訴訟判決における伊藤正己裁判官反対意見)に対して無自覚に「寛容」を強制するという(堀江宗正)、およそ「近代国家の常識」(福田歓一)を弁えない態度である。
かかる「日本的多神教」(木村草太)とも呼ばれる従前からのあり方に加えて、「パワースポット・ブーム」や「聖地ブーム」に見られるように、神社が「宗教」とは意識されないままに人々の生活の中に浸透していくという事態は、近時ますます進行しているように思われる。このような日本社会の現状に鑑みるならば、明治憲法下の政教関係を特徴づけていた神社非宗教論は、憲法学にとって今なお重要な論点であり続けていると言えよう。