井筒「東洋哲学」とエラノス会議(2/2ページ)
天理大教授 澤井義次氏
井筒のエラノス講演の主要テーマを挙げると、禅の思想、中観思想や華厳思想の存在論、唯識思想の意識論、インドのヴェーダーンタ哲学、老荘思想、二程子や朱子の思想、『易経』の思想、楚辞のシャーマニズムなど、実に多岐にわたる。これらのテーマは全て、『意識と本質』などの著書において主要な論点を成している。東洋の伝統的な思想テクストの意味論的な「読み」にもとづいて、存在と意識に関する東洋哲学の構造を明らかにし、それらのテクストを貫く思想構造を「東洋哲学」の名によって具体化させようとした。
西洋哲学は一つの有機的統一体の自己展開として全体を見通すことができるが、東洋思想には西洋哲学と並置できるようなまとまりはない。このような東洋における諸伝統の思想的状況を踏まえて、井筒は東洋思想の「共時的構造化」を構想した。つまり、東洋哲学の諸伝統を時間軸からはずし、それらを範型論的に組み変えて、それら全てを構造的に包みこむ一つの思想連関的空間を人為的に創り出そうとしたのだ。
こうした理論的操作によって成立する思想空間は多極的重層的構造を成している。その構造的分析をとおして取り出される東洋の哲学的思惟の根源的パターンを基盤として、彼は「東洋哲学」を意味論的に構築しようとした。日常的経験世界における全ての事物事象、またそれを眺める私たち自身も全て、言語的意味分節によって生起した有意味的存在単位にすぎない。こうした存在現出の根源的な事態を、井筒は「意味分節・即・存在分節」と呼んだ。こうした言語的意味分節理論が「東洋哲学――少くともその代表的な大潮流の一つ――の精髄」であると井筒は考えた。
井筒は67年、エラノス会議に招かれたとき、会議の主催者から、彼の専門領域を「哲学的意味論としてよろしいか」と尋ねられた。そのとき、井筒は「全く予想もしていなかったレッテル」に少し驚いたという。井筒は当時、いまだ自分自身の方法論を「哲学的意味論」として自覚していなかったからだ。しかし、その時期を境にして、井筒は「哲学的意味論」を自らの方法論として意識するようになった。井筒にとって「意味論」とは、言語のキータームを「より一層重要な、周りを囲む世界を概念化し解釈する道具」として用いる人々の世界観を概念的に把握するために、それを分析的に研究することであった。彼はイスラームや東洋の思想の意味世界をそれぞれのキータームの意味に沿って明らかにしようとした。
言語と存在の原初的連関性に注目した井筒は、東洋思想の存在論を根底的に規定する哲学的立場の中でも、言語と存在の関係をめぐる言語否定的な立場に注目した。それは言語の実在指示性を否定するものである。彼の主体的な関心から、また意味論的な視座から、その立場に関心を抱いた井筒は、エラノス講演において、ナーガールジュナ以後の大乗仏教思想、老子や荘子の道家思想、シャンカラのヴェーダーンタ哲学などを取り上げて、その思想構造の特徴を論じた。彼の哲学的思惟の原点は、幼少期以来、彼が最も身近に親しんでいた禅的体験とその思想にあった。
東洋の思想伝統には、禅宗の坐禅とか、ヒンドゥー教のヨーガ、宋代儒者の静坐、『荘子』の坐忘など、意識の深層を拓く伝統的な修行形式がある。井筒が強調した東洋の哲学的思惟の最も根本的な特徴とは、東洋の哲人たちが伝統的な修行方法をとおして、日常的経験の世界に存在する事物を事物として成立させる境界線を取り外して、存在の深みを見ることを知っていたことである。東洋の哲人たちは、深層意識の次元を体験的事実として拓き、その深みの地平に身を据えながら、存在リアリティーの多層的構造を眺めることができた。井筒は、こうした東洋思想の構造を意味論的に「意識と存在の構造モデル」として具体化し、その意味構造を探究したのだ。
井筒「東洋哲学」のこうした意味論的な試みをさらに比較宗教学的パースペクティヴから展開することによって、現代の宗教研究において、私たちは新たな知の地平を拓いていくことができるであろう。