幻の山林寺院「檜尾古寺跡」の発見(1/2ページ)
京都女子大非常勤講師 梶川敏夫氏
京都市左京区の銀閣寺(慈照寺)東背後にある如意ヶ嶽は、夏のお盆の伝統行事「大文字五山送り火」の大の字が灯される山として広く知られていますが、最近この如意ヶ嶽の南麓で見つかった平安時代前期の山林寺院跡についてご紹介しましょう。
平安京の東方に位置する如意ヶ嶽(標高465メートル)は、通称を大文字山と呼ばれていますが、歴史的にもこの峰の名は如意ヶ嶽で、東側の近江国にも近く、山中には寺院跡や山城跡など多くの遺跡が点在します。また、この峰の南麓には京・近江を最短で結ぶ如意越えと呼ばれる山越えの古道が通り、この道は保元元(1156)年7月の「保元の乱」で敗れた崇徳上皇が近江へ逃れようとした道であり、治承4(80)年の「以仁王の挙兵」では、以仁王がこの道を通って園城寺(三井寺)へ逃亡。また道の入り口に当たる鹿ケ谷には、安元3(77)年6月に平家討伐を企てた「鹿ケ谷の陰謀」で知られる俊寛の山荘があったとされ、歴史上よく登場する場所でもあります。この古道沿いの山中には、大津市にある園城寺別院の如意寺が建立されました。
如意寺は、史料から平安時代中期頃には存在していた山林寺院で、南北朝時代に描かれた『園城寺境内古図』「如意寺幅」(重要文化財・園城寺蔵)が伝わり、鎌倉から南北朝期に隆盛を誇っていましたが、応仁・文明の乱で罹災して以後に廃絶し、山中に幻の寺となってしまいました。
この如意寺跡は、個人的に境内古図を頼りに1985年から数年をかけて山中で行った踏査で、寺跡のほぼ全容が判明し、東西約2・5キロの広範な山中に6箇所余りに分かれて本堂と子院の跡が点在することが明らかになりました。ところが、この調査で発見した如意寺子院の一つである大慈院跡と推定した場所からは、さらに古い平安時代前期の軒先瓦や土器が見つかり、ここは山科区の北方の安祥寺山の山腹にある安祥寺上寺跡の北に位置する場所でした。
それを当時、恩師で古瓦研究の第一人者である木村捷三郎先生に相談すると、平安時代前期、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人で、安祥寺開基の恵運が9世紀後半に勘録した『安祥寺資財帳』に、願主である仁明天皇女御の藤原順子(文徳天皇生母)が斉衡3(856)年に山五十町(約60万平方メートル)の土地を買い上げ、安祥寺上寺に施入した四至(境内四方の境界)に、上寺の北は「檜尾古寺所」と書かれていると教わりました。
安祥寺は資財帳から、上寺と下寺があったことが知られ、山中にある上寺は早くに廃絶しましたが、下寺は元の位置から移転してJR山科駅北方に法灯を今に伝えて現存。上寺跡は大慈院跡推定地から南約600メートル、標高約350メートルの安祥寺山南麓に遺跡として良好に残存しています。
そこで、発見した推定大慈院跡は安祥寺上寺跡との位置関係から、檜尾古寺が廃絶後に改めて同場所に建立された寺院ではないかと考えましたが、その当時は結論を出すことができず、幻の山林寺院のままとなってしまいました。
安祥寺上寺跡は、2002年から筆者が顧問をしている京都女子大学考古学研究会の調査成果を受けて、京都大学COE(文部科学省の研究拠点形成費等補助金事業)の研究テーマに選ばれ、安祥寺に伝わる什宝類も合わせて調査が行われて学際的な調査成果となり、いくつかの報告書が出版されましたが、大慈院跡と檜尾古寺跡の関係は、依然として不明のままとなっていました。
筆者が10年に京都市文化財保護課を定年退職後、この謎を探るために考古学研究会のメンバーたちと一緒に何回か現地踏査を行っていました。
17年春の調査では、山中に多く棲息するようになったシカが、遺跡上の雑草を地表近くまで食べ尽くし、それまで隠れていた礎石が地表に表れて、建物跡が残存することが判明しました。