「文化財」となった伊勢斎王の墓(2/2ページ)
成城大大学院 北井優那氏
このように明和町には隆子女王墓と惇子内親王伝承墓の2カ所の斎王墓が存在し、それぞれ宮内庁と明和町から管理されるに至っている。もっとも、これらの斎王墓の被葬者については必ずしも学問的な裏付けがあるとは言えない。しかしその背景には、地域の伝承と、斎宮跡が国史跡に指定され博物館が設立されるまでの地元の熱心な運動があったことは確かである。
では、明和町はこれらの斎王墓をどのように位置付けているのか。同24(2012)年の『明和町歴史的風致維持向上計画』では、惇子内親王伝承墓は前述の通り明和町指定文化財とされているが、隆子女王墓については宮内庁による管理がなされており明和町としての指定・管理はなされていない。しかし明和町はこの隆子女王墓を、斎宮関連の史跡を観光資源などに活用する文脈に確かに位置付けているのである。
文化庁が同27(2015)年に創設した「日本遺産」に、明和町の申請した「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」が同年4月24日に認定された。「日本遺産」とは文化庁が「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを『日本遺産(Japan Heritage)』として認定し、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の様々な文化財群を総合的に活用する取組を支援」(『日本遺産』文化庁文化財部記念物課発行)するものである。明和町は「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」のストーリーを「斎宮跡」や「斎宮跡出土品」などの斎宮・斎王に関する文化財によって構成しており、その中の「斎王の解任」の章で「隆子女王の墓」をその構成文化財としている。宮内庁の管理する陵墓が文化庁によって文化財とされることは、これまでは例外的な事例にとどまっていた。そもそも陵墓は皇室の祖先の御霊が眠る国民の尊崇の対象として宮内庁が管理するものであって、文化庁や各自治体が管理する文化財とはその在り方が根本的に異なる。ごくわずかの例外を除けば、宮内庁によって陵墓とされている場合、そこが文化財として指定されることはない。その点からみて、この度の明和町の例のように陵墓が構成文化財に含まれたのは大いに注目されることである。
しかし陵墓である隆子女王墓が明和町によって「日本遺産」の構成文化財とされた一方、明和町指定文化財である惇子内親王伝承墓は「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」のストーリーで紹介される場合もあるものの、「日本遺産」の構成文化財とはされていない。
この「日本遺産」には、文化財の活用、ひいては地域の活性化を図る目的がある。さらに改正された文化財保護法が同31(2019)年4月1日には施行され、文化財の活用がさらに促進されると思われる。しかし宮内庁の管理下にある隆子女王墓は、文化財としての活用を前提としていない。明和町によって隆子女王墓が「日本遺産」に組み込まれたことで、隆子女王墓の在り方はいかばかりでも変化するのであろうか。明和町にとって、斎王に関する史跡・文化財は他にかけがえのない地域に伝えられた「遺産」である。文化財を取り巻く状況が変化する中で「日本遺産」という枠組みを通じてその特色がどのように生かされるのか、陵墓がどれだけ開かれた文化財としての価値を発揮できるのか、これらの点について今後の動向についても引き続き注目したい。