親鸞の経論の読み替え(1/2ページ)
大谷大名誉教授 小谷信千代氏
親鸞がその当時の通常の理解とは異なるかれ独自の教義の理解の正当性を示すために、経論の語の読み替えを行ったことはよく知られている。例えば、臨終時に往生して得られるとされる正定聚の位を現生に移行するために『浄土論註』(以下『論註』)の語を読み替えたことと、回向する者を行者から如来に転ずるために同じく『論註』では「回向する」と説かれている語を「回向したまえり」と読み替えたことが周知されている。
それとは多少異なるが、『一念多念文意』(以下『文意』)において、「即得往生」の語を文字通り「直ちに往生を得る」ことではなく、「正定聚の位につき定まること」を意味する語として解釈することも、その種の読み替えとして理解することができる。
これは『論註』を読み替えて往生して得られるとされる正定聚の位を現生に移行したことと目的を一にする読み替えであり、その読み替えの意図を理解することは親鸞の往生論を理解する重要な手立てとなる。
「即得往生」は、浄土経典において通常は、臨終の時に「直ちに往生が得られる」ことを意味する語として現れる。しかし、第十八願の成就文においては臨終時であることを示す語が現れず、真実の信心が得られれば現世で「直ちに往生が得られる」ことを意味するかのような形で現れる。
それゆえ親鸞はそのように誤解されないように『文意』において「正定聚の位につき定まるを、往生をうとはのたまえるなり」と述べて、「即得往生」の語を通常の「直ちに往生が得られる」という意味ではなく、「正定聚の位につき定まること」を意味する語へと読み替えている。
この『文意』の語が親鸞の読み替えであることが理解されなかったことから、親鸞は「正定聚の位に就くことが、即ち往生を得ることである」と述べたものと速断して、「現世往生説」が生まれることになった。「即得往生」を真実の信心が得られれば直ちに「往生が得られる」ことを意味する語と理解したことから「現世往生説」は生まれたのである。
確かに第十八願は「念仏往生の願」と言われるように、念仏という「因」によって往生が「果」として得られることが誓われている願である。ゆえに、その願が成就したことを述べる文に出る「即得往生」の語には、真実の信心によって往生が「果」として得られることが説かれていると考えるのが通常の理解である。
現世往生説を主張する人々は「即得往生」の語を文面通りにそう理解したのである。けれども親鸞自身は文面通りには理解しなかった。成就文の「即得往生」の語を親鸞は『教行信証』行巻では次のように読み替えている。
必得往生と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰らわすなり。経には即得と言えり。釈には必定と云えり。即の言は、願力を聞くに由りて、報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。
ここでは「即得往生」は「必得往生」と読み替えられている。そして「往生」を即得すると経には説かれるが、即得されるのは「不退の位」すなわち「正定聚の位」であると読み替えられている。そして「即」という「現生で直ちに」を意味する語は、「報土の真因」の決定することが「現生で直ちに得られる」ことであると説かれている。
このように親鸞は、第十八願の成就文を、「即得往生」が往生が「果」として得られることが説かれていると読む通常の読み方とは異なって、「報土の真因」つまり往生の「因」が得られることが説かれる文へと読み替えている。
しかし、現世往生説を主張する人々は、その読み替えの意味を理解せずに、親鸞は「即得往生」を往生の「因」ではなく往生が「果」として得られるものと理解したのである。
正定聚は『無量寿経』では「仏になるに定まった位」とされ、臨終往生して浄土において得られる位とされている。親鸞は通常は命終後に浄土で得られるとされる正定聚の位を、『論註』の語を読み替えることによって、現生で得られる位へと転じた。
親鸞にそのような読み替えをさせたものは、親鸞の胸底にある、自ら真実の経と信じる『無量寿経』には「凡夫が仏になる教え」が説かれていなければならないとする確信であったと考えられる。その確信がかれに牽強付会とも思える強引な読み替えを敢行させたのである。