明治維新150年、長州藩と靖国神社(2/2ページ)
萩博物館特別学芸員 一坂太郎氏
続いて長州藩は同年7月、失地回復を目指して京都で「禁門の変」を起こしたが敗れ、「朝敵」の烙印を押された。以後、4カ国艦隊下関砲撃事件、藩内戦、2度にわたる長州征伐などと苦難が続く。
庶民も軍事力として動員した長州藩では、夥しい数の戦死者を出した。その霊は仏式ではなく、藩内20カ所に設けられた招魂場に「神霊」として祀られた。「殉難者」の魂を招いて慰める祭事が、春秋には盛大に催された。
一方、身近で正成的な「殉難者」が急増すると、長州藩では肝心の正成への興味は薄らいでゆく。かつては藩内に楠公社を建てる計画もあったが、招魂場創建ラッシュの中で立ち消えてしまった(なお、正成顕彰の流れは、明治になり新政府が墓所西隣に湊川神社を創建し、別格官幣社とする)。
やがて大の長州藩嫌いだった孝明天皇が崩御すると、情勢が変わる。16歳の明治天皇により慶応3(1867)年12月、王政復古の大号令が発せられ、幕府権力は消滅した。復権を果たした長州藩は天皇を戴く新政府の一翼を担い、薩摩藩とともに「維新の勝者」となる。
続く戊辰戦争は、新政府の権力基盤を固めるための内戦であった。戦火は京都郊外から関東、東北、北海道へと広がってゆく。江戸城に乗り込んだ新政府軍(官軍)は明治元(1868)年6月、幕府権威の象徴だった西の丸大広間で、味方の戦死者の招魂祭を行った。敗者のプライドを踏みにじる行為だったことは、言うまでもない。
では、これが日本古来の慰霊の方法だったのかというと、それは違う。たとえば「禁門の変」後、孝明天皇は知恩院と黒谷で敵味方の区別なく、戦死者供養のための於施餓鬼を行わせた。わずか、数年前のことである。
明治2(1869)年6月、東京九段坂上に東京招魂社が創建され、戊辰戦争における新政府軍側の戦死者の霊3588柱が合祀された。のちの、靖国神社である。創建に尽力したのは招魂場づくりのベテランである、長州出身の木戸孝允と大村益次郎だ。
敵である幕府方を「朝敵」と決めつけ、靖国神社から徹底的に排除したのは、一種の見せしめづくりである。会津落城の9月22日を「大祭」の日と決めるなど、敗者に対する屈辱的な仕打ちを国家レベルで行った。死者に鞭打つような行為は、どうも西洋的な感覚であり、悪しき近代化の産物のような気がしてならない。
明治20年代になると土佐・長州・薩摩など、勝者側の戊辰戦争以前の「殉難者」の神霊も、続々と靖国神社に合祀されてゆく。
そこで矛盾が噴出したのが、かつて孝明天皇から「朝敵」の烙印を押された長州だった。合祀の基準は、天皇への忠誠度だ。にもかかわらず長州藩の場合、「朝敵」当時の戦没者を含む600人が、「殉難者」として合祀されてしまったのだ。
納得できないのは、「朝敵」を征伐せよと動員され、長州藩と戦って死んだ者の遺族たちだ。福山・浜田藩の関係者は陳情して、ついに合祀を実現させた。会津藩も「禁門の変」の際、御所を護って戦死した32人に限り、合祀が認められた。
こうして、攻めた側も攻められた側も祭神として祀られるという、異例の事態が生まれた。しかし、だからと言って敵味方の区別無く祀るというルールが確立されたわけではない。明治10(1877)年の西南戦争で「賊」として死んだ西郷隆盛も、「維新の功臣」と評されるが、合祀されていない。
明治維新百五十年を、政府はイベントとして、ひたすら美化して盛り上げたいようだ。しかし内戦だけに、いまだ癒えない傷も多い。反省も含めた、さまざまな視点から日本の近代化を考察する好機にしたいものである。