明治維新150年、長州藩と靖国神社(1/2ページ)
萩博物館特別学芸員 一坂太郎氏
東京の靖国神社は、戊辰戦争の戦没者の霊を祀るために創建された。その源流のひとつが楠木正成を祀る「楠公祭」にあると、私は考えている。
正成は河内国赤坂の武将で、後醍醐天皇のもとに馳せ参じ、鎌倉幕府打倒、建武の新政(中興)に功を立てた。しかし建武3(1336)年、叛旗を翻した足利尊氏と摂津国湊川で戦って敗れ、「七生滅賊」を誓い自決する。7回生まれ変わってでも、賊を滅ぼすという凄まじい決意だ。
軍記物語『太平記』では正成を「弓矢を取って名を得たるもの」として、その名将ぶりを絶賛する。だが、足利や徳川といった武家政権にとって正成は、不都合な存在でもあった。天皇と結び付けば、幕府打倒の大義名分が得られるという危険な理屈を与えてしまう可能性もあるからだ。だから大衆人気は高まっても、湊川の墓は粗末なものだった。
しかし元禄5(1692)年、水戸藩主徳川光圀が湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻む新たな墓碑を建てたことで、扱いは一変する。水戸徳川家は徳川御三家のひとつだが、皇室を敬う気風が強い。『大日本史』編纂を始めた光圀も、熱烈な正成崇拝者だった。
徳川方がお墨付きを与えたので、正成は「忠臣」としての評価が定まる。山陽道に近い墓所は名所となり、多くの旅人が参るようになった。
ところがそれから百数十年がたち、徳川政権が揺るぎ始めると、正成の墓は幕府打倒の精神的シンボルと化し、多くの「勤王の志士」が訪れるようになる。
特に長州の吉田松陰などは、肉体は滅んでも、志は消えないという死生観を、正成から学んだという。松陰は、自分と正成の心は数百年の時空を越えて、結び付いていると信じた。そして、萩の松下村塾に「七生滅賊」の軸を掛けて後進を育成した。
「安政の大獄」に連座した松陰は安政6(1859)年、30歳で江戸で処刑されたが、辞世の「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」は、正成の死生観そのものである。
長州藩毛利家は皇族の流れをくむとされる大名で、もともと「尊王」「勤王」が盛んだった。
そのため幕末になると、攘夷(外国排撃)を唱える孝明天皇側に立ち、開国した幕府を非難する。「楠公湊川の決意」をスローガンとし、関門海峡を通航する外国艦を次々と砲撃した。正成のように勝敗は度外視して、天皇のために戦うのが、臣下の道というのだ。そして亡き松陰を、尊王攘夷のシンボルとして祭り上げてゆく。
ところが、長州藩の暴走を一番憂慮したのは天皇だった。そのため文久3(1863)年8月18日、政変が起こり、長州藩は過激派の公家7人(七卿)とともに京都から追放される。長州藩主は天皇の前での弁明を望むが、京都守護職の会津藩が激しく反対して、京都にすら入れてもらえない。
逆境に立たされた長州藩では元治元(1864)年5月25日、藩主父子や支藩主も列席するという大掛かりな楠公祭を周防山口で行い、士気を高めた。なにしろ正成は、「勤王の志士」の大先輩なのだ。
注目すべきは、その際、正成とともに松陰ら16人の長州藩士の霊を「殉難者」として祀ったことだ。藩の政策に従って命を落とせば、その霊は正成や松陰と同じ祭壇で祀られ、第二、第三の正成として藩主までが礼拝してくれるのである。