朝鮮半島出身の宗教民族学者・金孝敬 ― 近代日本の宗教≪14≫(1/2ページ)
文化庁文化部宗務課専門職 大澤広嗣氏
中外日報が創刊したのは1897(明治30)年である。帝国日本が台湾を領有した直後であった。その後、樺太、関東州、朝鮮半島、南洋群島、満洲などを植民地とした。敗戦までの中外日報を見ると、これら各地での日本宗教の布教を報じた記事が多く見られる。
植民地では、現地の人々に初等教育から日本語を教えた。やがて、日本本土で高等教育を受け、日本語で学会発表を行い学術論文を書く、植民地出身の学者が現れた。宗教学界と民族学界で活躍したのが、朝鮮半島出身の金孝敬(キム・ヒョギョン)である。
金孝敬は、中外日報と関わりが深かった。後述するように、多数の論説を寄せていたのである。
金孝敬は、1904年に朝鮮半島北部の平安北道義州に生まれた。その直後に大韓帝国は、日本の保護国となり、10年に併合される。
金は、新義州高等普通学校を経て、財団法人朝鮮仏教団の第2回布教留学生に選抜され、26年に大正大学専門部仏教科へ入学した。受け入れ側の保証人は、東京芝にある浄土宗大本山増上寺の執事長の窪川旭丈であった。
布教留学生は、朝鮮出身者を日本本土の寺院や学校に派遣して、布教に従事する人材育成の制度であった。しかし、金は学問を志望して、さらに大正大学文学部宗教学科へ進学した。同学科で、矢吹慶輝、大島泰信、真野正順から指導を受けた。非常勤の講師であった東京帝国大学の宇野圓空からは、宗教民族学の影響を受けた。
卒業論文は、「巫堂(ムーダン)考」と題して、朝鮮半島のシャーマニズムを論じたものである。その後に金孝敬は、大正大学宗教学研究室の副手を務めた。
法然上人鑽仰会が、35(昭和10)年に増上寺を事務局に発足すると、副手の任期が終了したこともあり、教授らの紹介で同会の事務局に勤務した。この頃、日本仏教の書籍を朝鮮語に翻訳して紹介に努めた。矢吹慶輝の『法然上人』(岩波書店、32年)を訳して、矢吹慶輝著・金孝敬訳『覚聖法然』(覚聖法然刊行会、34年)が刊行された。
大正大学以外でも活動の場所を広げた。立正大学の満鮮講座で講義を行い、國學院大學の海外神社奉仕者講習会では「大陸の宗教問題」を講じた。学界で活躍は目覚ましく、30年代以降の日本宗教学会や日本民族学会(現・日本文化人類学会)の刊行物を見ると、金の論文が複数見えるのである。
日本の敗戦後、朝鮮半島南部に米軍軍政が行われ、48年に大韓民国が独立する。金は、ソウルの東国大学校教授や国立民族博物館館長を務め、ソウル大学校でも教えた。しかし、50年に朝鮮戦争が勃発すると、金は北朝鮮に拉致された。その後の行方は、今も分からない。
金孝敬は、健筆を振るった。学風を見るため、本紙に寄せた論説の連載記事を示そう。
34(昭和9)年=「仏教史上に於ける朝鮮と日本との交渉」(5回、5月5~10日)
35(昭和10)年=「朝鮮文化史上に於ける仏教の地位」(5回、1月16~20日)
36(昭和11)年=「風水信仰の日本に及ぼせる影響」(5回、9月13~18日)
37(昭和12)年=「半島民族の王座 天道教」(6回、3月19~25日)、「天主教朝鮮伝道悲史」(4回、4月13~16日)、「支那とモハメット教」(3回、11月12~14日)
38(昭和13)年=「日本は支那の道教を如何に消化したか」(5回、1月20~25日)、「神仙憧憬に現れたる支那国民性」(7回、5月7~14日)、「支那革命不絶の思想根拠」(7回、7月14~21日)、「新興満支に仏教各宗は何を為す可きか」(3回、12月9~11日)
39(昭和14)年=「大陸文化建設の基本問題 支那人の風習とその原因」(6回、11月11~17日)
40(昭和15)年=「支那国民の心的性格の真相」(5回、11月28日~12月3日)