ハンセン病と近代の宗教 ― 近代日本の宗教≪9≫(2/2ページ)
國學院大准教授 藤本頼生氏
戦後の永代神社は、占領後の神道指令により、鳥居が解体され、本殿は美術品扱いとして存置したものの、御霊代を礼拝堂へ遷したため、祭祀を斎行することができず、事実上廃絶状態となっていた。この廃絶状態から再興に尽力したのが、昭和23(1948)年設立の神社関係婦人会の連合体である全国敬神婦人連合会と東京都敬神婦人連合会である。
全国敬神婦人連合会では、同28(53)年に京都救癩友の会会長であった高原美忠八坂神社宮司よりハンセン病救済に関する講話を受けたことが契機となって、翌29年5月21日に岡山県の邑久光明園内の光明神社の鎮座祭に玉串料と盲導鈴、長島愛生園に盲導鈴を寄贈したのが同会と国立ハンセン病療養施設の入所者との関わりの嚆矢である。
この寄贈を契機として、同会では、国公立のハンセン病療養所内の神社復興に取り組むこととなり、廃絶状態にあった永代神社を再興できないかという話が持ち上がることとなった。同30(55)年3月19日に東京都敬神婦人連合会が見舞金を持参して、多磨全生園を訪問した際に園の関係者や入所者より、「(入所者の中には)この神社復興の希望もあるが、その資金を国庫からいただけず、そのままになっているのが残念だ」という話もあり、復興に向けて資金面でも尽力した結果、同年5月21日に再興がなされた。
以後、例祭については全国敬神婦人連合会、東京都敬神婦人連合会に加え、昭憲皇太后がハンセン病患者の救済につくされていたという御坤徳を受け継ぎ、明治神宮、明治神宮崇敬婦人会も尽力してきたが、近年では、東京都神道青年会の協力も得、多磨全生園と園内の患者たちを中心に日常の維持管理を担っている永代神社奉讃会との合同で斎行している。しかし、奉讃会の会員は園内の有志であったため高齢化に伴い減少、平成19(2007)年より、入所者自治会にその運営を引き継いでいる。
例祭の後には、毎年、全生園園長の他、奉讃会を代表して入所者自治会の会長より御礼の挨拶があるが、自治会に引き継がれる以前の同16(04)年頃までは、奉讃会の代表から「園内の守り神様として、命ある限り神社を守り伝えて行きます」という挨拶がなされていた。近年の挨拶では、入所者の平均年齢が80歳超となっていることもあって、「生きている限りは関係団体の協力を得て祭典を継続していきたい」「入所者がいなくなっても永代神社がいつまでも保存されることを期待する」という旨の挨拶がなされている。こうした挨拶の変化にも見られるように、入所者の高齢化と減少に伴って保育園が園内に建設されるなど、園の様相も刻々と変化しているなかで、この先入所者が不在となった際に、「神社が保存されることを期待する」という故人たちの遺志をいかに尊重し得るか、再興に尽力してきた敬神婦人会にとっても一つの大きな課題となってくるものと推察する。
以上、十分に意を尽くせなかったが、多磨全生園内の永代神社の設立と再興の経緯を整理しつつ、宗教とハンセン病との関わりについて述べてみた。ハンセン病療養施設にあっても、入所者の共同生活の場に感受される存在である神や仏であるだけに、各宗教施設の役割は重要である。それとともに神道と福祉という観点からは、神社が園内の守り神として創建され、入所者の心の拠り所となって今日まで崇敬され続けた意義を考え直すとともに、その護持をどう考えるかという点も今後大きな課題となるものと考える。永代神社の未来をいかに考え、いかに神社を護持していくかは、ある意味、この先の日本社会における過疎化、高齢化に伴う宗教施設の今後を考える上でも大いに参考になるものであると考える。