ハンセン病と近代の宗教 ― 近代日本の宗教≪9≫(1/2ページ)
國學院大准教授 藤本頼生氏
昭和28(1953)年8月15日に施行された法律第214号「らい予防法」が平成8(96)年4月に廃止されてから20年余。かつての隔離政策に基づく苦難の歴史のなかで、とくに東京都東村山市の国立多磨全生園内に建立された宗教施設にかかる経緯を振り返りながら、宗教とハンセン病との関わりについてあらためて考え直す機会としたい。
多磨全生園は、明治42(09)年9月28日に、公立療養所第一区府県立全生病院として、東京府北多摩郡東村山村南秋津(東村山市青葉町)の地に設立された。同病院は、その後、昭和16(41)年7月1日に厚生省に移管されて国立療養所多磨全生園と改称、現在に至っている。開院にあたっては、身延山久遠寺の僧侶綱脇龍妙が各宗教団体の信仰に配慮する立場から、入所者へ各信仰上の見地から慰安教化を行うための施設建設を光田健輔医長(のち院長でハンセン病患者の強制収容、完全隔離政策の強化を推進)に助言した。しかし、光田は宗教施設の建設が入所者らの宗教感情の紛擾を招く恐れがあるとして、助言に反し礼拝堂建設を推進した。そのため院内では、開設当初から礼拝堂を中心に日蓮宗や真言宗、キリスト教を中心に慰問や布教活動が行われていた。礼拝堂は42年9月に建設され、礼拝堂内の正面に三つの祭壇が仕切りの壁で区切られて並び、中央には伊勢の神宮を祀り、右には日蓮上人の座像、左には阿弥陀如来像が安置されていた。同園の70年史にあたる『俱会一処』(多磨全生園患者自治会編)では、この礼拝の祭壇を「どこにも見ない奇妙な光景」であったと伝えている。堂内では、祭壇の前で、仏教各宗の勤行やキリスト教の礼拝、クリスマス行事など様々な行事が行われ、まさに園内の中心施設として機能していた。
園内で最初に布教がなされたのは、浄土真宗とキリスト教で、開設直後から布教活動が行われた。その逆に入所者で信徒の講が結成されたことによって布教活動が行われるようになったのが日蓮宗である。大正10(21)年に真言宗大師講が結成されて以後は、4宗派による活動が中心であった。
光田院長時代の大正3(14)年に医師として赴任していた林芳信が、昭和6(31)年に全生病院長に就任したことにより、院内の宗教活動は一変する。林は岡山県苫田郡鏡野町の大美彌神社の社司であった林正心の四男で、警察医から全生病院へと転じた臨床医であるが、戦前・戦後の激動の時代を入所者と苦楽を共にしたことでも知られる。逝去時には、園内の納骨堂に自身の骨を埋めよと遺言するなど入所者との結びつきが強い院長でもあった。その林が院長となって間もない同7(32)年に、入所者の自発的な意志により拠金を集めて自らの労力で丸4年かけて建設されたのが永代神社である。
林は建設にあたり、自ら内務省神社局へ赴いて造神宮副使(神社局長の兼任)宛に申請書を自ら提出して遷宮の余材5石を払い下げた。この林の尽力もあってか、神社局の命名にて社名を「永代神社」、祭神として伊勢神宮(天照大神・豊受大神)と明治神宮(明治天皇・昭憲皇太后)が祀られることとなった。
設立時の祭礼は盛大であり、現入所者自治会の会長である佐川修氏は、平成22(2010)年5月の例祭に参列した折の奉賛会挨拶において、神社の創建当時を振り返り、戦時中の物資が不足するなか、「鳥居の前を通る時にはお辞儀をし、みんなで神社のお祭りを楽しみにしていた。今日の厳かなお祭りに参列して当時のことを思い出した」と述べている。