中国仏教思想史上における『宗鏡録』(1/2ページ)
花園大国際禅学研究所専任講師 柳幹康氏
『宗鏡録』は今日の日本においてはあまり知られていないが、中国ひいては東アジアにおける仏教の展開を考える上で極めて重要な書物である。
『宗鏡録』は今から時を遡ること千百年、唐と宋を結ぶ五代十国時代に活躍した禅僧永明延寿(904~976)により編まれた。当時の中国はわずか50年のうちに五つもの王朝が目まぐるしく交替する大変な動乱の時代にあり、仏教は相次ぐ戦禍と二度にわたる弾圧により甚大な被害を受けていた。
そのようななか、例外的に小康状態を長く保持したのが南方の呉越国であり、同国の歴代国王は仏教を敬い国威の発揚と国力の増強に努めた。延寿は時の国王銭弘俶(在位948~978)の篤い庇護のもと、国都杭州永明寺にあって唐代以前の仏教文献を渉猟し、自心を仏心と看る禅宗の立場から要文を遍く集めて百巻にまとめた。これが『宗鏡録』である。
『宗鏡録』とは、宗鏡(鏡のように万法を照し出す宗の一心)を明かすべく仏典の要文を蒐集収録した書物の意で、その要点を延寿は「頓悟」と「円修」の二つにまとめている。「頓悟」とは本来仏である自らの心(=宗鏡)を看取すること、「円修」とはその心のままに仏として行為すること――具体的には慈悲の心に基づき、戒律から外れることなく、あらゆる善行を行うこと――を指す。
延寿にとって『宗鏡録』は細分化した従来の仏教を一元的に統合する書物であった。延寿は当時の各派の僧侶――学僧・禅僧・律僧らに批判的な眼差しを向けている。延寿によれば、学僧は経文を学ぶばかりで一心を看ず、禅僧は一心を看るのみで経文や戒律を軽視し、律僧は戒律を墨守するだけで一心を看ない。それに対し延寿は経文から要文を抜粋して『宗鏡録』にまとめ、一心を「頓悟」し戒律にかなう「円修」を行う道を人々に提示したのである。
王権を背景に仏教を総括した延寿の『宗鏡録』は、その没後次第に人々の記憶から薄れていったが、宋が中国を統一して絶対的皇権が確立すると、勢力を大幅に伸ばした禅宗を中心に広く受容された。その契機は雲門宗の禅僧円照宗本(1020~99)に求められる。彼は時の皇帝神宗(在位1067~85)の招聘を受けて首都汴京大相国寺慧林禅院に住した当時を代表する名僧で、1070年代に『宗鏡録』を再発見し世に紹介した。
その後、神宗の弟趙頵(1056~88)が行った小規模な出版と、宗本の法嗣大通善本(1035~1109)が行った大規模な出版を経て世に広まり、1107年になると禅僧の手により皇帝の勅許を得て仏典の一大聖典集たる大蔵経に編入・刊行された。このように『宗鏡録』は宗本の再発見ののちわずか40年も経たないうちに、仏教の正統説と公認されるに至ったのである。
『宗鏡録』はその後も歴代の大蔵経に収められ続け、諸宗融合の道をたどるその後の中国仏教に理論的根拠を提供し続けた。その様子は後世における二つの延寿像――蓮宗祖師としての延寿像と調停者としての延寿像――の変遷に見てとることができる。
蓮宗とは延寿が没して200年後、南宋の時代に成立した中国浄土教の一派である。そもそも延寿を直接知る人物が編んだ伝記において、延寿はもっぱら禅宗祖師として描き出されており、そこに浄土的要素は全く含まれていなかった。
ところが北方異民族の擡頭により社会不安が高まり、浄土の教えが人々に広まる北宋の時代になると、延寿の伝記に念仏の実践や極楽往生など浄土的伝説が挿入されはじめる。そして蓮宗が一宗一派の体裁を整える南宋にいたり、延寿は蓮宗の第六祖に列せられた。いわば延寿は当時の人々の浄土に対する憧憬を反映する形で、その身に蓮宗祖師の衣をまとったのである。