幕末の天台宗に伝わった井上正鐡の「信心」の系譜(2/2ページ)
井上正鐡研究会代表 荻原稔氏
実は、この「但唱」とは、木食弾誓の後継者の一人の名でもある。弾誓は尾張国に生まれて諸国行脚の末に、慶長2(1597)年に佐渡の檀特山で現われた阿弥陀如来から「十方西清王法国光明満正弾誓阿弥陀佛」の名と、信心の境地を表す「仏頭」を授けられた。その念仏は、跳踉囀蹶といわれ、自ら「ツムリフリマワス念仏」というように身体の動きや音声の変化も激しかったらしい。その高弟であった木食但唱(1579~1641)は師の念仏を継承しつつ各地で作仏勧進を行い、最晩年の寛永16(1639)年正月には、江戸幕府の宗教統制に対応して、天海より「融通念仏弘通朱印状」を受けて弾誓流の念仏集団を天台宗の傘下で存続させることに成功した。しかし、浄土宗に所属するグループもあったりして、独自の念仏行法もやがて衰退した。
浄光寺但唱は、没後約200年を経たこの木食但唱に自分を重ね合わせて、念仏信心の復興を企図したようだ。活動期間は、安政6(1859)年10月に没するまでのわずか5、6年間程度であったが、それを受けた一人が、後に「深大寺高声念仏」を指導するようになった天台宗深大寺(東京都調布市)80世住職尭欽(1822~1902)だった。この人は、当初は「世上一般但唱ノ念佛ヲ邪法念佛ナリト云フ沙汰アルカ故ニ容易ニ許諾」(『高聲念佛起源』)せず、但唱の存命中には入門しなかった。しかし、訃報を聞いて慕わしくなり、但唱の同行であり正鐡の直門でもあった村越守一(1813~80)から文久元(1861)年4月に「念仏信心」を授かったのだった。そこから、深大寺の末寺であった西蔵寺(川崎市)住職の亮伝(1829~90)が影響を受け、西蔵寺住職を辞して、浄土宗の弾誓遺跡寺院である箱根塔ノ峰阿弥陀寺の立基(後の證善)(1830~1910)に入門して、2年半ほど高声念仏を修行したのである。
塔ノ峰阿弥陀寺の立基は、浄光寺但唱から「信心伝授」のメソッドを得て高声念仏の指導を始め、亮伝も門下となったのだが、明治5(1872)年には大流行して足柄県の取り締まりを受けるに至った。当時の新聞記事には、「講中昼夜高声ニ念仏ヲ唱ヘ、且満願結縁ノ節ハ男女ニ限ラズ一人宛暗室ニ入レ念仏ヲ唱ヘサセ、遂ニ咽喉渇キ、身体労シテ気絶スルニ至ル…色々ト介抱シ、更ニ今日ヨリ菩薩ノ善性ヲ受ケ、罪障脱シ、幸福ヲ得タル」(『新聞雑誌』61号)と教えたと記されている。だが、このトラブルを契機に浄土宗から時宗に転じて證善と改名して横浜に浄光寺を建立し、さらに時宗でも高声念仏を指導した。
さて、塔ノ峰での修行を終えた亮伝は、慶応4(1868)年に天台宗真福寺(千葉県いすみ市)の32世住職となり、明治2(1869)年から高声念仏の指導を開始した。明治11(1878)年には、天台宗所属の「浄信講社」を設立して参篭設備も整えた。それから120年以上にわたり継承されて、平成初年まで高声念仏が行じられていたのだ。
浄光寺但唱は、井上門中の三浦知善に出会うことで、どうして200年前の弾誓の「念仏信心伝授」の復興という思いに至ったのだろうか。弾誓と正鐡を直接つなぐ文献上の系譜は見当たらないし、弾誓の念仏と復興した「弾誓流高声念仏」とは、同一でもなさそうだ。今日には伝わらない口伝を知っていたのかもしれないが、木食行者の「信心」が、幕府の宗教統制に従いつつ地下に潜って再び湧出したとき、行ずる者は誰でも「信心」を授かれる「信心伝授」という易行のメソッドの姿をしていたと読み取ったのではなかろうか。