幕末の天台宗に伝わった井上正鐡の「信心」の系譜(1/2ページ)
井上正鐡研究会代表 荻原稔氏
禊教教祖とされる井上正鐡(1790~1849)は、江戸末期の天保年間に江戸近郊で民衆教化の活動を行い、「祓修行」という行法を伝えた。それは、リーダーの鈴のリズムに合わせて、「とほかみえみため」という神道の祓詞を大声で唱え続けるなかで、指導者(産霊役)により「喜心」「悟心」という二つのステップの通過を見定められると、「信心」を授けられるというのである。行法に参加する者は誰でも、数日という短期間のうちに、「疑の心」を離れて、「誠の心」即ち「信心」という境地に至り得るというメソッドである。
だから、この「信心」とは、長期の学習が必要な教義の習得による信仰心や苦行ではなく、行法に「のり」(乗り、宣り、則り)さえすれば、到達できる易行であり、身体感覚なのであった。正鐡自身は、この「信心伝授」のメソッドを「今井いよ」「貞昌」という未詳の女性指導者から伝承したのだが、今日その淵源がどこなのかを論証する手立ては見つからない。しかし、身体感覚としての「信心」は、確かに伝えられていたのである。
正鐡の活動は、寺社奉行による取り締まりを受けたが、門人たちによって秘密裏に伝承され、明治時代を迎えて、その多くの部分は「大成教禊教」や「禊教」として、金光教や黒住教などとともに教派神道の一部を形成していった。そのため、今日では神道の一派としての認識が一般的であるが、実は仏教的な展開をした流れもあり、昭和初期までは、古老にはその事実が記憶されていた。ある教会の機関誌には、「(正鐡の門人たちは)…一は仏教で修行する一派、一は神道で修行する一派に分れ、更に神道に一は禊派、一は『とほかみ』派に分れた。何れも其の奥に進めば同一なる正鐡翁の伝へたものであるに帰着する。…正鐡翁の苦心されたのは呼吸即ち息の術であった…」(『唯一』2巻8号、昭和9年)という記事がある。これは禊教の歴史を端的に概括しているが、この「仏教で修行する一派」が、「南無、阿弥、陀仏」とリズミカルに大声で名号を唱え続け、やがて「信心」を伝授される「高声念仏」の教化活動であった。すなわち正鐡の行法では、唱え言葉の交換が可能だったのである。
この「高声念仏」については、江戸学者の三田村鳶魚が、大正元年の論文「調息の獄」(『日本及び日本人』587号から595号)で言及してはいたが、100年を経て拙稿「禊教の初期門中と弾誓流高声念仏の復興」(『神道宗教』220・221号、平成23年)でようやくその詳細を明らかにすることができた。
さて、この「高声念仏」は、最後の導師で天台宗大僧正でもあった須藤大元が「弾誓流高声念仏」(『天台』4号、昭和56年)と題して書いているように、その淵源には近世初頭の念仏行者木食弾誓(1551~1613)が位置付けられていた。そして、相承譜には、傍系の先師として井上正鐡とその高弟三浦知善(1798~1856)の名も見えているのだが、この「弾誓流高声念仏」復興の活動を安政年間(1854~60)に始めたのは、江戸郊外の天台宗浄光寺(東京都葛飾区)53世住職であった諶長(1810~59)である。浄光寺は将軍の鷹狩の休息所であって朱印地も有し、『江戸名所図会』には「木下川薬師」として掲載されている名刹であった。諶長は焼失していた本堂や庫裡を再建して寺の復興を成就して隠居し、安政初年に三浦知善と出会い「信心伝授」のメソッドを継承して、「但唱」を名乗り「念仏信心伝授」を指導し始めたのだった。