忍性再考 ― 忍性三骨蔵器と弥勒信仰(2/2ページ)
山形大教授 松尾剛次氏
昭和57(1982)年には、額安寺の忍性墓からも金銅製の水瓶型の骨蔵器が発掘された。さらに、昭和61(1986)年には、竹林寺から忍性の金銅製の水瓶型の骨蔵器が発掘された。額安寺と竹林寺から忍性の骨蔵器が発掘されたのは、極楽寺の骨蔵器の銘文から予想されたことであった。注目されるのは、額安寺と竹林寺の骨蔵器が全く同じ形であり、同一の鋳型で制作されたと推測されている。
ところで、ここで注目したいのは、なぜ忍性が遺骨を三つに分骨させたのかということである。従来は、律宗の祖として、叡尊・忍性らが尊敬した中国唐代の道宣(596~667)に倣ったと考えられている。確かに道宣伝には、「塔を三所に樹つ」(『律苑僧宝伝』)とあり、忍性がそれを意識していたことは考えられる。ではなぜ三所なのかという問題が残る。
その謎を解く確証はないが、私見では弥勒三会と関係するのではないか、と考えている。弥勒菩薩は、釈迦の滅後の56億7千万年後に、この世に弥勒仏として下生し、3回の竜華会を開き、第一会で96億、第二会で94億、第三会で92億の人々を救うとされる。それゆえ、墓所が1カ所では、墓所がなくなって、その三会に会えない可能性も考えて3カ所にしたのかもしれない。道宣は弥勒信仰を有していた。また、先の忍性骨蔵器には、「三会の暁を約す」と銘文があることから、忍性が弥勒信仰を有していたことは確実である。
さらに、近年、貞慶の墓所と骨が、奈良県三郷町の持聖院から見つかり、貞慶墓所が笠置寺、海住山寺、持聖院の三つ所在したことがほぼ明らかとなった。貞慶が弥勒信仰者であったことは言うまでもない。それゆえ、弥勒三会信仰とそれらの三つの墓所は関係していると考えている。
とすれば、叡尊も3カ寺に分骨したのではないかと推測され、私は奈良西大寺、京都葉室浄住寺、伊勢弘正寺を想定している。奈良市の西大寺は言うまでもないが、叡尊の終生の活動拠点であり、浄住寺(京都市西京区)は叡尊の京都における、弘正寺(三重県伊勢市、廃絶)は伊勢における最大拠点であった。とりわけ、伊勢弘正寺には西大寺の叡尊塔と同じ塔高3・4メートルの巨大五輪塔(県指定有形文化財)がある。忍性は叡尊を慕っており、叡尊に種々の点で倣ったと考えられるからだ。その当否はともかく、三つの骨蔵器は叡尊教団の素晴らしい美術工芸遺品といえる。
いま一つの目玉は、鎌倉極楽寺の忍性菩薩坐像や同寺の本尊である重文の清凉寺式釈迦如来立像・十大弟子立像などの宝が、奈良博に来た点である。そうした極楽寺の仏像群は、めったに見られないものである。とりわけ、忍性像と興正菩薩叡尊坐像は、私自身も近くではっきりと見たことはなかった。「特別展忍性」による調査で、忍性像の頭部は鎌倉時代に遡ることが明らかとなった。極楽寺は、1303~08年の間に火災があったと考えられているが、嘉元4(1306)年4月に奈良で再造されて極楽寺に寄付された叡尊像と同じく、忍性像もその際に焼けて、再造されたものかもしれない。叡尊像の再造年から、火災の年も1303~06年とより限定できそうである。叡尊教団は清凉寺式釈迦像を本尊としたので、同様の像が数多く制作されたが、極楽寺の像はことさら優美で、優しい顔立ちである。個人的には大変気に入っている。
以上のような、特徴を持った「特別展忍性」であったが、それを機に忍性研究の重要性が再認識され、研究が深化することを願って、拙文を終えよう。