忍性再考 ― 忍性三骨蔵器と弥勒信仰(1/2ページ)
山形大教授 松尾剛次氏
今年7月23日から9月19日まで奈良国立博物館(奈良市)で「生誕800年記念特別展 忍性 救済に捧げた生涯」(以下、「特別展忍性」と略記)が開催された。今月28日から神奈川県立金沢文庫(横浜市金沢区)でも開催される。私は、8月6日に奈良博での公開講座の講師を務めたが、予想外に多くの聴衆が集まり、入場制限がなされるほどであった。良観房忍性(1217~1303)に対する認知度が、以前よりは高くなってきたことを実感できたのは喜ばしい。しかし、まだまだ忍性の業績が人口に膾炙されているとは言いがたい。そこで、忍性伝を再考しよう。
忍性は、鎌倉極楽寺(神奈川県鎌倉市)を拠点として、ハンセン病患者の救済活動などを行った僧として知られるが、その存在は、師の叡尊の影にかすみがちで、過小に評価されてきた。「慈悲心が過ぎた」と叡尊が述べたように、どちらかというと教学的な発展に努力した叡尊に比して、忍性は社会救済活動に多大なる努力を行った。いうなれば、忍性は実践家で、叡尊とは異なる独自な役割を果たしたと考えられる。それゆえ、忍性独自の研究が必要とされるのだ。まず、忍性の略歴を復習しておこう。
忍性は、建保5(1217)年7月16日に大和国城下郡屏風里、現在の奈良県磯城郡三宅町屏風に生まれた。三宅町は、奈良盆地のほぼ中央に位置し、東境を寺川、西部を飛鳥川、西境を曽我川が流れる。とくに屏風は、聖徳太子が斑鳩宮から橘宮へ通った太子道に沿った地であり、屏風という地名は、道中の太子へ供御を奉るため屏風を立てたことに由来するという。このように、忍性は、聖徳太子信仰ゆかりの地に生を受けた。
貞永元(1232)年に、母の死に際して額安寺(奈良県大和郡山市)で出家し、官僧となった。官僧を離脱して叡尊の弟子となったのは、仁治元(1240)年のことであった。建長4(1252)年以降は三村寺(茨城県つくば市)、極楽寺など関東を中心に活躍した。とくに、ハンセン病患者救済活動は注目すべき活動といえる。
当時、ハンセン病患者は、最も穢れた存在とされていた。また、仏罰としてハンセン病に罹ったと考えられ(仏罰観)、人間にして人間に非ざる存在、すなわち、非人として忌避されていたほどであった。忍性らは、文殊信仰に基づき、非人は文殊菩薩が仮に姿をやつした人として救済したのである。患者を薬湯風呂に入れ、自らの手で垢をすり、食事を与えた。その一方で、仏教を教え、戒律護持を勧め、身体の元気な人には、道路の修理などを手伝わせた。忍性らの非人救済活動は、ハンセン病=仏罰とするなど、現在の我々の観点からすれば、間違った考えに基づいていたにせよ、彼らの献身的かつ慈悲の精神に基づく活動は、大いに賞賛されるべきものといえる。こうした救済活動により、鎌倉幕府・朝廷の保護を得て、鎌倉の港湾管理などを任され、極楽寺や金沢称名寺(横浜市金沢区)などが大発展を遂げた。
ところで、「特別展忍性」の目玉の一つは、重文の三つの忍性の骨蔵器が一堂に会して展示されたことであった。忍性は、嘉元元(1303)年7月12日に鎌倉極楽寺で死去したが、弟子に遺言して遺骨を三分割し、極楽寺と竹林寺(奈良県生駒市)と額安寺の3カ寺に分骨することを命じた。それらの忍性墓から出土した骨蔵器が、三つ一緒に並んだのは史上初めてのことであった。それらは、錆によって青緑色がかっているが、美麗である。
昭和51(1976)年に、極楽寺の五輪塔の下から忍性の金銅製の骨蔵器が発掘された。それには銘文が刻まれ、極楽寺と竹林寺と額安寺に分骨されたことが記されていた。