韓国で「東アジア宗教研究フォーラム」創立記念大会(2/2ページ)
天理大おやさと研究所教授 金子昭氏
次に、韓国の柳聖旻・韓神大教授は、東アジアにおいて宗教研究を行う際、西洋由来の「宗教」概念に問題があるのではないかと提起。東アジア圏においては、信念や主義というよりは、文字通り「根本となる教え」である。何を信じるかが宗教ではなく、どのように生きるのかを学ぶことが宗教ではないか、というのである。「儒教が宗教なのか」と問うこと自体が「偽りの問題」であり、いつまでもそれに巻き込まれてもいいのだろうか。柳教授は、東アジアの人間として、自らの生と文化を理解するために、東アジアの宗教を研究するならば、「東アジア宗教学」を創造し発信していくべきだと述べた。また、将来的には、北朝鮮やモンゴルをも包括する東アジアの宗教研究が行われるべきだと語った。
これまでの経過を経て、このフォーラムでは、国際学会を開催するにあたり、次の四つの方向性を見いだしてきたように思う。
第1に、母国語で発表できる国際学会であること。同じ問題領域を共有するにしても、社会や歴史における問題条件はそれぞれ固有のものであり、それを端的に示すのが言語である。国際学会発表も母国語で行ってこそ、発表者は自らの最高水準の研究を発信できる。もちろん、そこには、正確な通訳・翻訳が求められることは言うまでもない。
第2に、フットワークの良い国際学会であること。国際学会にはとかく人・物・金がかかるが、だからといって教団との一定の距離感も健全な宗教研究には大切だ。むしろ、東アジア各国の関係者がそれぞれに知恵を出し合って、可能な限り手作りの学会運営を行っていく。そのためにはフットワークの軽さが不可欠だ。
第3に、草の根の国際交流をめざした国際学会であること。東アジアの宗教文化と相互の研究を通じた交流に関心を持つ者なら、所属(国家、教団、学校など)にとらわれず、だれでも個人の資格で自由に自主的に参加できる。そうした開かれた運営姿勢を有してこそ、とかくぎくしゃくしがちな東アジア各国相互で草の根レベルでの交流は深まっていくのである。国家関係がどんなに悪化しても、個人としての信頼関係があれば友好の姿勢はくずれない。
第4に、これが最も大切な点であるが、次世代の研究者を育てていくための国際学会であること。大会テーマ「東アジア宗教研究の現在と未来」に相応しく、未来志向の姿勢がフォーラムの基本姿勢である。今回、発表者の大半を大学院生や若手研究者が占め、翻訳・通訳を担当してくれたのも韓国側の優秀な若手スタッフであった。彼らが誠実な学問的関心を持ち、相互に深くコミットしていけるような支援体制が求められるところだ。
とはいっても、この宗教研究交流が進めば、共通の歴史認識におのずと到達できるとか、政治的和解の糸口が見えてくるとかというものでは決してない。大会の発表テーマにも、まだ国家間のデリケートな問題に直接入りこむような内容のものはなく、手探りで模索している最中だと言ってよい。
教団に属して信仰を持つ研究者であれ、信仰的背景を持たない一般の研究者であれ、研究対象は人類の叡智を宿してきた宗教文化である。教義学や神学、宗教学、社会学、歴史学、人類学など、研究者が持てる学識を駆使して東アジアの多様な宗教現象に肉薄することを通じ、むしろ逆に宗教の方から東アジア圏の友好親善のヒントや手掛かりがおのずと引き寄せられてくるものだ。その際、研究者に求められるのは、まさに研究対象である宗教文化から叡智ある教えを学び、導きを受けるという謙虚な姿勢ではないかと思う。