臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱に寄せて(2/2ページ)
花園大教授 安永祖堂氏
「無事之貴人」といふ有名な文句がある。僕はただこれをもぢって書いてみたまでだ。色紙をつきつけられて、その時、これと思って、書いてみたいといふ文句も、別段、思ひ浮かばなかったので、突嗟に「無事これ貴人」をもぢって、「無事これ名馬」と書いた。
言葉は生き物だ。このような一人歩きまでしてしまう。「無事」という禅語からは、ずいぶんと異なった意味の成句へと変貌を遂げたものではないか。
さて、本題である。唐代洪州宗にあって絶対視された「無事」は、時代が下って宋代の頃にはその価値が相対化される。
さらには、いわゆる「無事禅」(悟りを求めない禅)として批判の対象に成ることまでもあった。
しかし、大陸から宋代禅を受け入れた日本では、室町期の抄物と呼ばれる禅籍の講義録を見る限り、「無事」をむしろ肯定的に捉えているようである。
しかし、このような「無事」の受容に痛烈な批判を加えたのが、白隠慧鶴禅師(1685~1768)である。
禅文化研究所には積翠軒文庫旧蔵の禅籍の一部が収蔵されているが、その中に『臨済慧照禅師録中津自性寺提州和尚手鈔講本』という貴重書がある。
これは、白隠下の神足であった提州禅恕禅師が、白隠禅師の『臨済録』開筵にあってその提唱を筆録した書き入れ本である。
ゆえに録中の諸処に白隠禅師の肉声と思われる記載が見られるので、参考までに「無事是貴人」の箇所にある書き入れを紹介しておこう。
鵠林云ク、林才ガヲモシヤツテモ時節々々ガアル林才ノトキハ平常無事ガヨイデアロウ今時ハコンナコトハ大毒ジヤ
つまり、たとえ臨済禅師がこのようにおっしゃっても時節というものがある。禅師の時は平常無事がよいかもしれないが、今ではこれは大変な毒であるというわけだ。
同様の発言は他にも多く見られる。『白隠禅師法語全集第三冊』(1999年、禅文化研究所)にもこのようにある。
只だ無事是れ貴人と称して、飽まで飯を喫して日々坐睡す。掛絡も綿衣も皆な化皮ならんか。
すなわち、「上求菩提下化衆生」のために生涯を通して菩薩行に徹することを主張した白隠禅師にしてみれば、「無事」はたとえ臨済禅師の教えであってもすんなりと受け入れるわけにはいかなかった。
白隠禅師にとって「無事」は、むしろ不生禅を説いた盤珪永琢禅師のエピゴーネンを糾弾する際の蔑称としても用いられたのである。
自らが本当に大道の淵源に徹してから「無事」と説くのならばよいが、そうでなくては徒疎かに「無事」と納まっていてはならないと修行僧たちを戒められたのであろう。
しかし、これこそが「無事」を説いて下さった臨済禅師に対する白隠禅師一流の最高の報恩謝徳行の表わし方であろう。「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」(松尾芭蕉)
偉大な両禅師の遠諱に出会えるというのは誠に得難い法幸ではあるが、私たち一人ひとりに禅者ならではの報恩行を如何に努めるか、今はそのことが問われるのではないだろうか。