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第22回「涙骨賞」を募集
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活発化する中国の天台研究 ― 第6回中日仏学会議に参加して(2/2ページ)

創価大教授 菅野博史氏

2015年12月16日

日本では、このような政治と仏教の厳しい緊張対立の視点から智顗の死を解釈する研究はなかったと思われたので、興味を引かれた。ただ、その時はそれ以上考えることはなかったが、昨年、紹興市の会稽山で「支遁と魏晉南北朝仏教」と題する国際学術研討会が開かれ、徐文明(北京師範大教授)が「智者大師真身舎利の謎」(『論文集』269―275ページ)と題して、智顗の死後の遺体と舎利をめぐって、天台教団と楊広の深層の闘争について発表した。私はこの問題に再び出合うこととなり、しかも今回の会議は智顗の円寂の地である大仏寺での会議であったために、会議の前後この問題について考えざるを得なかった。

まず、これについて述べるために、智顗の晩年を簡潔に紹介しておきたい。

智顗は、38歳(575年)のとき、天台山に隠棲するが、智顗の弟子の永陽王の度重なる要請と陳の後主叔宝の勅命によって、48歳(585年)のとき再び建康(今の南京)に出た。智顗は陳朝で華々しく活躍するが、それもつかの間、20歳の楊広に率いられた隋軍に、陳朝は589年に滅ぼされてしまう。智顗は廬山に逃れるが、占領軍による現地の寺院の荒廃を救ってほしいという手紙を楊広に送った。

その後、智顗は故郷の荊州に行き、大勢の道俗に温かく迎えられるが、亡国の民の多数の集会を望まない隋朝によって、解散を命令され、智顗の活動も頓挫してしまう。591年には、揚州の禅衆寺において、智顗は楊広に菩薩戒を授け、楊広は「総持菩薩」と名づけられ、智顗は「智者」の号を授けられた。

さらに、智顗は廬山、南岳、潭州、荊州を経巡ったが、595年に楊広の願いによって揚州に戻り、楊広の依頼による維摩経疏の第1回の献上を果たした。しかし、かねて天台山を終焉の地と定めていた智顗は、楊広の許しを得て、同年9月頃、天台山に10年ぶりに戻った。天台山に戻ってからも病をおして維摩経疏の撰述(実際には口述筆記と思われる)に励み、第2回の献上を果たした。597年10月17日に、楊広の使者、高孝信が智顗を迎えにやって来たので、やむなく天台山を下り、第3回の献上の旅に出たが、病気のために、石城寺から進むことができず、11月24日に円寂したのであった。

潘桂明『智顗評伝』(1996年)45ページによれば、談壮飛が智顗の「憤死」、さらには「服毒自殺」の可能性を唱え、張哲永が「絶食死」を唱えた。これらの仮説の背景には、中国の学者が、『国清百録』に見られる智顗と楊広の表面的な蜜月的関係の裏に、政治権力者楊広の智顗への圧力や政治利用の意図を看取していることがある。楊広が維摩経疏の撰述を求めたことに対しても、智顗は最初断っていたが、ついには引き受けざるを得なかった。また、高孝信が天台山に迎えに来たときも、智顗に準備の時間を与えず、次の日には天台山を出発している。

「遺書」によれば、その年の夏、「一百余日」、病と闘いながら維摩経疏の完成に努力していた智顗を強いて江都に招くことは、智顗の死を早めるだけであったであろう。石城寺から動くことのできない智顗に対して、楊広は医者まで派遣しているが、「少し健康が回復したら、ゆっくり来てください。遠からずお会いすることをお待ちしています」と、さらに会見を強要している。

潘桂明は、「遺書」の前半の六恨の深層の意味を解説し、隋朝から受けた不当な扱いによって、智顗の仏法流布の願いが挫折したことの申し立て、訴えを読み取っている。一方、「遺書」の後半は、智顗が楊広に、天台山の国清寺の建立や、智顗にゆかりのある寺院の修理などを依頼した内容となっている。楊広は、智顗の死後、それらの要望を一つ一つ実現したのである。

智顗は、仏法者としての矜恃を持ちながら、檀越としての楊広に天台宗の将来を頼まざるを得なかったことも事実である。智顗と楊広の関係をどのように見るか、さらに興味をそそられるが、詳しくは改めて考察したい。

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