真理知と世俗知 ― 解脱の手段はヨーガの実修(2/2ページ)
大谷大教授 山本和彦氏
仏教の中観派の祖師であるナーガールジュナ(龍樹、150~250年頃)は真理(諦)を勝義諦と世俗諦とに分ける。勝義諦は言葉や概念を超えた真理であり、世俗諦は言葉で表現できる真理である。空性体験や涅槃の体験は言葉で表現できない勝義としての真理である。一方、ブッダの教説は言葉で表現される世俗としての真理である。ナーガールジュナは『中論』(24・8~10)において、次のように言う。
二つの真理に依存して、ブッダの法が教示される。世俗諦と勝義諦とである。この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えの深遠な真理を知らない。言語活動に依存することなく、勝義諦は説示されない。勝義諦が得られていなければ、涅槃は証得されない。
ナーガールジュナは二つの真理を言う。一つは言葉によって示される真理である世俗諦であり、ダルマ(法)としてのブッダの教説である。もう一つは、言語活動のない寂静なる涅槃の直接体験である勝義諦である。ナーガールジュナは帰敬偈で、縁起は戯論寂滅であると言い、第25章「涅槃の考察」で涅槃も戯論寂滅であると言う。縁起も涅槃も言語活動が停止したところにある。『中論』(18・5)において空性体験は次のように言われる。
業と煩悩との滅から、解脱がある。業と煩悩とは分別から生じる。それらは戯論から生じる。しかし、戯論は空性体験において滅せられる。
分別も戯論も言葉による活動であり、概念的知識が得られるのみである。空性体験という直接経験によって、言葉や概念は滅し、そして業と煩悩の滅した人は解脱する。
仏教論理学者のディグナーガ(陳那、480~540年頃)は、認識対象を個物としての個別相と概念としての共通相との二つに分け、それぞれの認識手段を知覚と推理とに限定する。ディグナーガの認識論と論理学を継承するダルマキールティ(法称、600~660年頃)は、概念知である推理知は誤った知識であると言う。正しい知識は直接体験である知覚によってのみ得ることができる。知覚は個物を対象とし、推理が概念を対象とする。2種類の対象があるので、認識手段も二つである。ディグナーガの知覚定義によれば「知覚は概念作用を離れたものである」(『プラマーナ・サムッチャヤ』1・3)。外界の実在は知覚によって認識される。知覚の認識結果は言語表現できない。「あれ」「それ」「空」としか言いようがない。一方、推理によって認識されたものは言語表現できる。ダルマキールティによれば、推理は概念を対象とするので誤った認識手段であるが(『プラマーナ・ヴァールッティカ』3・55~56)、知識としては確実であり、さらに人間にとって効果がある。
ヒンドゥー教新論理学派のガンゲーシャ(1320年頃)は、ヨーガと真理知(タットヴァ・ジュニャーニャ)による解脱のプロセスをうまくまとめている。彼は『タットヴァ・チンターマニ』において次のように言う。
天啓聖典や伝承文学で言われているヨーガの規定によって、長時間絶え間のなく、注意深く実践した瞑想によって生じたヨーガから生じる〔純粋な〕ダルマによるアートマンに関する真理〔知〕の直接経験は、輪廻の種子である潜在印象をともなう誤知の根絶を可能にし、過失(煩悩)がなくなるので、活動(業)などがなくなり、未来のダルマ(善業)とアダルマ(悪業)が生起しなくなり、無始以来の〔輪廻している〕生存に積集された業の享受による滅から、彼は解脱する。
解脱の手段は何か。何が煩悩(クレーシャ)と業(カルマン)を消滅させるのか。それはヨーガの実修という人間の努力である。天啓聖典であるウパニシャッド記述のヨーガの実修方法による瞑想を実践すると純粋なダルマが生じる。そのダルマが真理知を発生させ、誤知(無知)を滅する。順次、煩悩と業が滅し、新たな業が発生しなくなり、いままで蓄積されていた古い業が滅したときに、その人は解脱する。