真理知と世俗知 ― 解脱の手段はヨーガの実修(1/2ページ)
大谷大教授 山本和彦氏
古代インドのウパニシャッド文献(紀元前7~前4世紀頃)では、真理知と世俗知との二つの知識は厳しく峻別されている。真理知はヨーガ(瞑想)による個人の直接経験知であり、世俗知は概念知であり、言葉による知識である。無知や誤知は常に排斥される。概念知である世俗知は正しい知であっても解脱の手段ではない。『イーシャー・ウパニシャッド』(9~11)は次のように言う。
無知を崇拝する者たちは、盲目の暗闇に入る。知識で満足する者たちは、さらに深い暗闇に入る。知識とまったく異なり、無知とも異なると彼らは言った。このように賢者たちがわれわれに教えてくれたそのことをわれわれは聞いた。そして、知識と無知の両方を同時に知る者は、無知によって死を越え、知識によって不死を得る。
解脱を導かない世俗知と無知とは批判されている。「死を越え、不死を得る」とは解脱のことである。相対的な概念知を超越したところに真の知識がある。それはもはや個人の直接経験である。それによって人は解脱する。『ムンダカ・ウパニシャッド』(1・1・4~5)では、二つの知識は次のように言われる。
二つの知識を知るべきである。ブラフマンを知る者が語ったように。優れたものと劣ったものである。そのうち、劣ったものとは『リグ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』、音韻学、祭祀学、文法学、語源学、韻律学、天文学である。一方、優れたものとは不滅なものを証得する手段である。
ここでは知識が二つに分けられている。劣った知識と優れた知識とである。劣った知識は、学問的知識であることがわかる。優れた知識は不滅なものであるアートマンを体験する手段、つまり解脱の手段である。「不滅なものを証得する」とは解脱するという意味である。ウパニシャッドの根本思想は、梵我一如である。宇宙の本体ブラフマンと個人の主体アートマンとが同一であることの体験知から人は解脱する。この知識はヨーガ体験によって発生する。ヨーガによって解脱するという表現はウパニシャッド文献においては、『カタ・ウパニシャッド』において多く見られる。
アートマンに関するヨーガによる証得によって、神を体験的に知り、賢者は喜びと憂いを捨てる。(『カタ・ウパニシャッド』2・12)
このアートマンは言葉によって得られない。(同2・23)
マナスを整え、常に清浄で知識のある者は、その境地に至り、そこから再び生まれることはない。知識を御者とし、マナスの手綱を握る者は、ヴィシュヌの最高の境地に達する。(同3・8~9)
解脱の体験は言葉によっては得られない。「証得」とは体験的に知り得ることであり、「喜びと憂いを捨てる」とは言葉による相対性を超越することであり、「ヴィシュヌの最高の境地」とは解脱の境地である。マナス(感覚器官)を制御するというヨーガによってのみ解脱の手段としての知識が発生する。この知識こそが真理知であり、そこから人は解脱するのである。
真理知の発生はヨーガ(瞑想)による。『ヨーガ・スートラ』(300年頃)には、ヨーガの実修により識別知から真智が発生するプロセスが述べられている。ウパニシャッド文献によって断片的に言及されてきたヨーガの実修方法は、『ヨーガ・スートラ』において体系化されるようになる。ヨーガの実修の結果として無明が除去されると言われているが、その手段は識別知である。そして、この識別知から真智が生じる。『ヨーガ・スートラ』(2・25~28)は次のように言う。
それ(無知)がないから、〔見者と対象との〕結合もない。これが除去であり、見者の独存である。除去の手段は、しっかりした識別知(ヴィヴェーカキャーティ)である。彼(識別知を持つ人)には、最高位にある7種類の真智(プラジュニャー)がある。ヨーガの階梯を修行することから、不浄が消え、知識の光が輝き、識別知までの〔生起がある〕。
無明(無知)は煩悩であり、ヨーガによる体験知である識別知や真智によって消滅する。煩悩の滅により、新たな業が生起しなくなり、人は解脱できるようになる。