シャルリ・エブド事件後のフランス ― 涜神認める「表現の自由」(2/2ページ)
上智大准教授 伊達聖伸氏
以上のことを確認したうえで、やはり私としては、フランスのライシテ(政教分離、世俗主義)を研究してきた者として、おそらく日本の感覚では多少わかりにくいと思われる点を指摘しておきたい。それは、フランスの表現の自由の特徴である。この国では、相手の人格を中傷することは違法だが、神や宗教を冒涜することは認められている。民族・人種・文化・宗教の違いを超えて、自律した市民が政治参加を通じて作りあげられるのが共和国である。人権宣言に集約されるフランス革命および共和主義の理念は、革命前のアンシャン=レジーム(旧体制)下で強大な権限を有していたカトリック教会からの解放という文脈において形成された。宗教批判を通して人権が確立されたこの国では、もちろん宗教を信仰する自由も人権の観点から保障されているのだが、宗教は人権を抑圧するものと見なされてしまうこともある。名誉毀損は罪になるが、涜神は犯罪を構成しないのである。
ユダヤ教徒とムスリムの処遇の差異も、このことに関係している。カトリックが国教だったアンシャン=レジーム下で差別されてきたユダヤ教徒にとっては、フランス革命の理念は文字通り解放の意味合いを持っていた。もっとも、その後の近代フランス社会においてもユダヤ人差別はなくならず、第2次世界大戦中に多くの命が失われたことは改めて指摘するまでもない。ただ、その反省もあって、現在では反ユダヤ主義的な言動は法的な取り締まりの対象になっている。
フランス革命の理念はムスリムにとっても解放の理念として機能しうるはずだが、植民地における彼らの地位は「原住民」であって「フランス市民」ではなかった。そして今日ではフランス市民であるはずの彼らに対して、しばしば社会的な差別があることも残念ながら現実である。ところで、イスラーム嫌悪を表わすイスラモフォビアという言葉は、イスラームに対して恐怖を覚えることであり、それ自体では犯罪とはならないのである。
このような違いが、当事者たちに二重基準と受け取られうるものであることは想像に難くない。しかしその一方で、人種や宗教を超える共和主義の理念が、実際にムスリムを社会に統合する役割を果たしてきたことも事実である。スカーフ禁止法などを思い浮かべると、フランスは他のヨーロッパ諸国にも増してイスラモフォビアの傾向が強いという印象を持つかもしれないが、実際にはムスリムに好感を抱くフランス人の割合は、ヨーロッパ各国と比べて高いのである。
私はこの2月から3月にかけて、ストラスブールに20日ほど滞在した。今回の事件は「フランスの9・11」とも呼ばれただけに、フランスもアメリカのように戦時体制に入ってしまうのではないかという一抹の恐れもないではなかった。事件後のフランスを肌で感じてみると、モスクやシナゴーグは銃を持った憲兵や警察が厳重な警戒に当たっていたが、市民生活に大きな雰囲気の変化は特に見られず、多少なりとも安心した。今回のような事件は、残念ながら今後も起こる可能性があるだろう。掛け声は勇ましい「テロとの戦争」とは異なる解決の方向性が、なんとか探れないものだろうか。
私としては、表現の自由は無制限ではなく、やはり一定の配慮をしながら限界を設けるべきであろうと考えている。自己検閲すべしというのではなく、今日の国内外の情勢に照らして実践感覚として再定義されるべきではないかということだ。ただし、フランスの論調を見ていると、そのように考える人は少数で、主流ではないようだ。
しかし、共生というのは、誰もが一定のフラストレーションを溜め込むのを甘受することではないだろうか。ライシテの基本法である1905年の政教分離法は、公認宗教制度を廃止しつつ信教の自由を保障するというもので、制定当時はカトリック側も共和派側の多くも不満を味わったものである。それが今日にまで及ぶ共生の枠組みを規定し続けてきた法律だということに、もう一度きちんと思いをはせたい。