教誨活動の歴史と課題 ― 「信教の自由」「政教分離」、両立模索(1/2ページ)
浄土真宗本願寺派 総合研究所研究助手 真名子晃征氏
2009年5月にスタートした裁判員制度の施行は、誰もが裁判員になりうるという点で、私たちの生活に大きな影響を与える改革だった。関係書籍が書店で平積みにされた光景は記憶に新しい。また10年8月、制度の不透明性を疑問視する声に対して当時の法務大臣が行った、東京拘置所内にある死刑執行の刑場公開は、死刑制度の問題から目をそらしていた人々にも否応なしに衝撃を与えた出来事であったように思う。裁判員制度・死刑制度ともに、その是非を含めさまざまに議論されているが、国民の目が司法制度に向かったことは事実であろう。
さて、このような司法制度にも深く関係する「教誨師」と呼ばれる宗教者をご存知だろうか。拘置所・刑務所などの矯正施設(※1)を描いた映画などでその存在を目にしたことがあるかもしれない。彼らは、矯正施設の被収容者の希望に応じて宗教的説話などを行う宗教者であり、被収容者の「信教の自由」を保障する役割を担っている。全国教誨師連盟によれば全国で1853人(13年4月現在)の教誨師が活動している。
近年、自死問題や震災対応など、宗教者の社会活動がクローズアップされている。しかし、制度的には100年以上の歴史をもつ教誨師の活動については、十分に知られていないのではないだろうか。そして、司法制度の大きな変化の中で、矯正施設そして教誨師に関する法律に同じく大きな変化があったこともあまり知られていない。本稿では日本における教誨の歴史をたどりながら教誨師について紹介したい(※2)。
まず注目すべきは、教誨師がボランティアだということである。「信教の自由」を保障する教誨師がなぜボランティアなのか、そこには制度の変遷を追う必要がある。
教誨の歴史は「信教の自由」と「政教分離」とをいかに両立するかを模索し続けた歴史といえる。「信教の自由」を保障するための「政教分離」と考えれば、この二つは相反するものではない。しかし教誨活動に限って言えば、むしろ「政教分離」が「信教の自由」を妨げてきた歴史がある。以下、二つの大きな転換点に注目しながら教誨の歴史を追っていきたい。
1872年、日本最初の監獄立法である「監獄則並図式」が頒布された。その後改訂を繰り返し、1908年に施行された「監獄法」が約100年にわたって用いられることとなる。この監獄法第29条に「受刑者には教誨を施す可し」として、受刑者への教誨が明確に定められた。
しかし、この一文をどう理解するかが問題となる。当時の大日本帝国憲法第28条には、「信教の自由」について「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とされている。この条文によって、受刑者はその対象外と理解されたのである。当時の監獄学の権威であり、「監獄法」起草者の一人である小河滋次郎は、その著書の中で繰り返し、受刑者は無宗教とみなしてかまわないとし、特定の宗教を強制することに問題はないと述べている。このように、大日本帝国憲法の下では、教誨とは被収容者の「信教の自由」に配慮しない強制的なものと考えられたのである。
教誨の歴史における一つ目の転換点が、1947年の日本国憲法の施行である。その第20条第1項に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と定められたことによって、被収容者も「信教の自由」の対象となり、自身が望まない特定の宗教行為・儀式への参加を強制されることがなくなった。しかし、第2・3項、また第89条の、いわゆる「政教分離」の原則を完全に貫くとすれば、「国及びその機関」に当たる矯正施設では「宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」ので、“宗教”教誨は憲法上不可能となる。この時点で、官吏(公務員)であった教誨師は法的な位置付けを失い、民間のボランティアとなった。
実際は通達などによって教誨は続けられるが、それら通達の目的もやはり強制的な教誨をやめることにあり、矯正施設内に設置されていた仏壇・神棚などが撤去されるといったことにつながる。それらを用いて宗教的な儀礼を行っていた被収容者にとっては、むしろマイナスになった。