伝道教団再生、20年後を見据えて ― 寺院活動“安心”が核に(1/2ページ)
浄土真宗本願寺派西方寺住職 西原祐治氏
私が住職を務める寺院は、1986(昭和61)年、浄土真宗本願寺派都市開教の一拠点として千葉県柏市に布教所を開設し、93(平成5)年に宗教法人を設立して今日に至っています。
私の都市開教に先立ち、父西原正念も島根県の本願寺派寺院で生まれ、57(昭和32)年、31歳で母子を島根に残し上京、3年後の60(昭和35)年、活動の手ごたえを得て母と兄と私を千葉県松戸市に呼び寄せて開教に従事しています。
父の時代も含めて都市における寺院活動の大きな転換期は、2点あります。一つは電話と自動車の登場です。63(昭和38)年ごろのことです。電話と車の登場により、寺院活動のエリアが点から面となりました。それ以前の東京圏での活動は、たとえば電話がない状況下で葬儀が発生した場合、宗派を問わず近くの寺院へ依頼していたようです。このことは、都営霊園のお墓の墓誌に刻まれている戒名(法名)からも明らかです。その時の事情によって門徒であっても他宗派の戒名(法名)が刻まれている墓誌が多く見受けられます。平成になり、墓誌の記録が俗名表記が多くなっていることには驚きます。電話と車の登場によって、浄土真宗の門徒は浄土真宗のお寺へという本来のあり方が維持できるようになったのです。
電話と車の登場と同様の変化をもたらせたのは、2000年以降のインターネットの普及でしょう。寺院と門徒が、地域という面でつながっていたものが、僧侶派遣やネット検索等によって立体的なつながりとなり、開教の主軸が寺院である必要はなくなったとも言えます。カルチャーセンターの仏教講座、葬儀社のグリーフワーク、僧侶派遣業者など、寺院が担っていた役割が分散されていっています。寺院の活動が分散する中で、寺院でなければならない核(コア)は何かと考えたことがあります。それは“安心”だと考えます。安心できる教え、安心できる空間、人間関係など、安心が核となる教えや文化、情報、儀礼を発信していく。インターネットの普及は、寺院が都市空間における新しいコミュニティーに成長する可能性を秘めています。
都市開教での開教寺院の対応は、「都会に転居した離郷門信徒」「いずれは田舎へ帰る離郷門信徒」「一般者未信の人」への3点です。
現在まで既成仏教教団の対応は、「離郷門信徒」だけです。それは重要で意味があることですが、農村部門徒の枯渇、また離郷して3代目が世帯主となりつつある現在、郷里の親せきや寺院と疎遠になり、所属宗派への帰属意識の喪失は、早いスピードで起こっています。こうした帰属宗派の混沌化は、浄土真宗本願寺派としては、絶好の開教チャンスでもあります。浄土真宗本願寺派の離郷門信徒も含めて、未信の人への対応というスタンスで寺院活動を推進すべきでしょう。
まずは結論からお伝えします。新しい伝道ソフトは、苦しみを通して、その苦しみの原因となっている自己の闇が洞察され自己変革が起きる。そのための諸活動です。これは苦しみを、やわらげる考え方ではありません。“苦しみを減らす”という考えは、何を苦しみとするかという私の価値観の基本は変わりません。苦しみの中で、苦しみの原因となっている価値観が壊れ、新しい自己に生まれ変わる。“苦しみは成長のとびら”として苦しみに寄り添う伝道ソフトの充実です。
現代人の苦悩は、生きる不安、人間不信、生きがいや人生の目的の喪失など、生の実感の体験が持てないことであると言われます。社会に大きな価値観がないことや上昇志向という希望の方程式そのものを喪失し、多くの日本人がニヒリズムのベールに閉ざされているようでもあります。新しい伝道ソフトは、ニヒリズムの克服ではなく、ニヒリズムを阿弥陀仏の本願力と出会う素材として認めていこうとするものです。ニヒリズムという苦悩は、人間の「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」(顕浄土真実教行証文類)の一症状であるとする考え方です。