早池峰山と神楽 ― 広く地域の信仰を集める(2/2ページ)
佛教大非常勤講師 中嶋奈津子氏
また、嶽妙泉寺は御室仁和寺とも本末関係にあった。1674(延宝2)年、第18世住職・快慶の時に嶽妙泉寺は御室仁和寺の直末寺となる。その55年後の1729(享保14)年には、第20世住職・義灯が仁和寺へ跡目御礼に上京しているが、このときに同行した六坊は京都吉田家の「神道裁許状」を得て社家となる。このように江戸時代には社家となった六坊の人々によって、また明治時代になると帰農した六坊の子孫により神楽は継承されたが、驚くことに現在も六坊の子孫が中心となり、数百年という歳月を決まった神楽の家筋のものだけで神楽を守っているのである。
神楽は、本来神社の例祭などで奉納されるものであるため、神社の境内にある神楽殿で舞われるのが一般的である。舞台の広さは約2間(360センチ)四方で、注連縄を張り神座とする。
神楽衆の役割には、「はやして」と「舞い手」とがある。舞台では神楽幕に向かうように、太鼓を打つ胴取りが1人と、「手平鉦」と呼ばれる鉦を打つものが2人座る。笛手1人と舎文(神楽の詩章)の語り手は、神楽の神楽幕の向こうにいる。胴取りは、舞手をリードするだけでなく、舞の最中に神招歌を歌う役割も持つ。舞手は6~7人、神楽幕の向こうに控えており、楽屋から神楽幕を上げて登場し、舞い終わると再び幕を上げて楽屋に戻るのが特徴。面をつけた舞を「ネリ」と呼ぶ。これは、人間の体を借りた心霊の舞とされる。神楽の後半に面を外して舞う舞があり、これを「クヅシ」と呼ぶ。
神楽の演目の種類については、「式舞」「神舞」「女舞」「荒舞」「番楽舞」「権現舞」にわけられ、40番以上を伝えている。神楽を進めるには決まり事があって、正式に舞う場合は最初に「打ち鳴らし」という神降ろしの儀式を行う。その後は必ず「式舞」を舞う。式舞とは、いつでもどこでも必ず最初に舞う一定の六番の舞であり、「式六番」とも呼ばれる。さらに「式舞」には「表舞」と「裏舞」とがあり、昼夜続けて神楽を舞う場合、夜には式舞の「裏舞」を舞う。演目は短いもので15分。長いもので60分になる演目もある。「式舞」が終わると、「神舞」「女舞」「荒舞」「番楽舞」の中から選んで舞う。そして神楽の最後には、「権現舞」で火難防止や悪魔払い、延年の祈祷をして締めくくるのが決まりとなっている。この流れは、おそらく神楽の長い歴史の中でも変えることなく継承している。
2014年1月25日、御室仁和寺で東北復興を願い、岳神楽が奉納された。かつて嶽妙泉寺の本寺であった仁和寺での岳神楽奉納は、神楽の開始以来、数百年の歴史の中で初めてのことである。神楽衆の願いは、佛教大学の八木透教授と佛教大学宗教文化ミュージアムの協力により実現された。
11年3月、東日本大震災・三陸大津波が発生し、岩手県・宮城県・福島県は、甚大な被害に見舞われた。とくに、三陸沿岸地域では、誰一人として想像もつかないような状況の中で、多くの尊い人命が犠牲になり、漁村は荒れ野原となった。
内陸の地域もまた、しばらくの間は全てのものが機能せず、あの不安な日々を決して忘れることはない。失ってしまったものは、人命・家屋・生活、そしてそれまで守ってきた文化である。民俗芸能もまた同様、担い手や道具が流され再開困難な状況であった。
けれど、東北人は厳しい土地で培われた根っからの精神的な強さがある。多くの協力者に助けられ、泥の中からまた復興を遂げようとしている。
犠牲者の冥福を祈り、そして東北の復興を願い奉納された岳神楽は、東北人の強さ、優しさ、あたたかさが感じ取れる舞であった。この日、20歳前後の若い神楽衆が3人参加していた。いずれも岳神楽を継承する家の子息である。彼らが親子で舞台に上がる姿を、感慨深い思いで見守っていた。早池峰山に抱かれた山村で、彼らの先祖はこうして代々神楽を守ってきたのであろう。そしてこれからも、この3人の若い神楽衆の成長とともに神楽の継承は続く。なにか希望の光を感じ、それが東北の復興の願いと重なる。あきらめず、希望の光を感じて、強く生きて道を開いてゆかねばならない。それを象徴するかのような、早池峰山の美しくも力強いその姿を、そして早池峰神楽を多くの方にご覧になっていただきたい。