早池峰山と神楽 ― 広く地域の信仰を集める(1/2ページ)
佛教大非常勤講師 中嶋奈津子氏
1910(明治43)年に出版された柳田国男著『遠野物語』をご存知であろうか。その中には、岩手県遠野地方の信仰の舞台として早池峰山(はやちねさん)という山が登場する。北上高地の主峰である早池峰山は、海抜1913・6メートルの大変美しい山である。遠野市・花巻市大迫町・宮古市川井を懐に抱き、古来地域住民のあつい信仰を集めている。大迫側の山麓の岳と呼ばれる集落には、早池峰山の山霊を祀る岳早池峰神社があって、早池峰岳神楽(以下岳神楽)が奉納される。勇壮かつ美しい、そしてどこか懐かしいこの神楽は人々の心をひきつける。神楽を見るために、8月1日の例大祭には毎年多くの人々が岳集落を訪れる。
この岳神楽は、同じく早池峰山麓の大償集落に伝承される大償神楽とともに「早池峰神楽」と総称される。二つの神楽を、「早池峰神楽」と総称するにあたっては、1956(昭和31)年に岩手県の重要無形民俗文化財に指定される際に、岳神楽と大償神楽のルーツが同じで共通の特徴があるということから、ともに「早池峰神楽」として登録されたが、地元ではそれぞれが「岳神楽」「大償神楽」の名称でなじんでいる。75(昭和50)年には同様に「早池峰神楽」の名称で、国指定重要無形民俗文化財の第1号となり、また2009年にはユネスコ無形文化遺産として登録されたことで、地元以外の地域、あるいは海外にも認識されるようになった。それぞれには、1595(文禄4)年銘の獅子頭と、1488(長享2)年の「神楽秘伝書」が保存されていることから、中世には神楽が成立していた、もしくは神楽の原型となる神事が行われていたと考えられている。
早池峰神楽の信仰の背景となる早池峰山は、古来その山霊を山の神・水の神・海上守護の神として広範囲の人々の信仰を集めている。前出の『遠野物語』には、早池峰山とその山霊にまつわる説話がいくつか見られ、その中には当時の山に対する人々の信仰や畏怖の様子を垣間見ることができる。遠野物語の2話には、それを象徴するような説話がある。
「(略)大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止まりしを、末の姫目覚めてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、つひに最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六甲牛と石神とを得たり。若き三人の女神各三つの山に住し、今もこれを領したまふゆゑに、遠野の女どもはその妬みを恐れて今もこの山には遊ばずといへり」――
このような説話を生み出すほど早池峰山は美しく、そして霊力をもつ山として遠野や大迫などの地域住民に認識されている。ハヤチネウスユキソウに代表される固有植物が多く、景観の美しい山として人気がある早池峰山は、今でこそ多くの登山客が訪れているのだが、実際に女性が早池峰山に登山するようになったのは戦後で、ごく最近のことである。また里の人々は山に霊力を感じるだけでなく、神仏の化身とされる「権現様」と呼ばれる獅子頭を奉じて舞う神楽衆に対しても「特別な能力を持つ」という認識をもっていたようで、「神楽衆の白足袋を洗ったり、お世話をすると御利益がある」「若い嫁の着物を神楽の時に着てもらうと、安産に恵まれる」などの話が聞かれる。
岳神楽が奉納される岳早池峰神社(大迫町内川目)は、明治期以前は嶽妙泉寺という寺院であった。岳集落は、江戸時代初期には早池峰権現を祀る新山宮と嶽妙泉寺を中心に、門前六坊と呼ばれる人々と4軒の禰宜、1軒の神子から構成されていた。門前六坊は宗教者、あるいは修験山伏であったとも伝えられる。六坊の人々は寺の執務を執り行うほか、「権現様」と呼ばれる獅子頭を神仏の化身として奉じて神楽を舞い、加持祈祷を行っていたことが『嶽妙泉寺文書』に記されている。これ以降も、神楽はこの六坊の人々によって担われるが、彼らの身分は時代の流れとともに変化する。江戸時代の嶽妙泉寺と六坊の人びとの状況をもう少し詳しくみてみたい。
慶長年間(1596~1615)に藩主・南部信直が、南部藩筆頭寺である永福寺の末寺として嶽妙泉寺を取り込み、東の鎮守と定め大旦那となる。1607(慶長12)年には藩主・南部利直が黒印状をもって、自領150石と三十六箇山を嶽妙泉寺に寄進している。この状況から、神楽もまた南部氏の庇護のもとに行われていた。