現代日本社会と宗教教育 ― 人間存在の可能性への理解を(1/2ページ)
宗教文化教育推進センター長、北海道大名誉教授 土屋博氏
日本宗教学会および「宗教と社会」学会を母体として3年前に創設された宗教文化教育推進センターは、さしあたり「宗教文化士」認定制度の設置を主要な事業としてきた。これはその後順調な歩みを続け、現在までに5回の認定試験を行い、144人の宗教文化士を世に送り出してきた。この資格の現実的効用は取得者各々による用い方いかんにかかっているので、現時点ではまだ評価を下すべき段階に立ち至っていないが、これまでの経験を通して、現代日本社会における宗教教育の問題点がいくつか浮かび上がってきたように思われる。
認定試験実施のために積み重ねられてきた研究と討論の中から見えてきたことの一つは、従来の日本の宗教教育理解がかなり限定された宗教観に基づいていたということであった。この発見は、前世紀半ば以来世界的規模で展開された宗教概念再考の動向と軌を一にする認識である。明治初年に翻訳概念として定着した日本語の「宗教」は、この言葉自体がすでに示唆しているように、まず何よりも「教え」であった。さらにそこから、その教えを説く既成教団の姿が思い描かれるのは自然の成り行きであろう。
その結果日本人が考える宗教とは、特定の教説を持った組織的集団のことになっていった。これは、「宗教」と訳されたヨーロッパの原語が持つ元来の意味からもさほどかけ離れたものではない。しかし、グローバル化が進んでキリスト教が相対化され、現代社会の展開に伴って教団組織の境界が流動化し始めると、こうした宗教理解は再考されざるをえなくなる。キリスト教をモデルとする実体的宗教概念だけでは、現代の多様な宗教現象を説明しきることができなくなったのである。
そこで日本語の世界で作業仮説的に導入されたのが「宗教文化」という概念であった。これに対応する概念は欧米にも存在しないわけではないが、どちらかと言えば、キリスト教以外の既成宗教の方がこの発想になじみやすい。宗教文化概念の利点は、まずこれが観念的になりにくく、具体的・現実的方向性を示唆することであろう。宗教と呼ばれる人間の営みは、現実には宗教文化として思想・芸術・等々と結びつき、聖と俗の境を越えるとともに、教団相互の境をも越えるのである。
宗教文化という表現を用いることによって、宗教現象は閉じられた教説の伝承に限定されず、教説それ自体の多様な展開が文化の次元でとらえかえされる。それによって、宗教集団を規定している教義・教説は、宗教体験と宗教思想のダイナミックスの中へと巻き込まれていくのである。伝承され規範化される教説は、教団内外で行われる戒律や儀礼を通してはじめて、現実社会に受け入れられる。宗教現象理解に不可欠のこうした実践的契機を具体的形態としておさえるためには、宗教文化という概念はかなり有効であろう。宗教概念再考の流れは、宗教理解において儀礼的なものが占める比重へと向けられた新たなまなざしと重なり合っている。
宗教教育はしばしば道徳教育と同類であるかのように見なされてきた。しかし両者は、本来別ものであることが確認されなければならない。人間の道徳感覚と宗教感覚は無関係ではないとしても、同一視されるわけにはいかないのである。人間の営みとしての宗教は、真偽・善悪の二分法を越えたところに芽生える「信ずる」という可能性に基づくものであり、この可能性は、はかなくもしたたかな持続力を持っている。
したがって宗教教育は、人間社会を支えるものではあるが、日本の政治の場で安易に用いられている道徳教育のように、国家統治の手段になるというわけではない。宗教教育に期待されるべき役割は、道徳教育の補完ではなく、人間存在の可能性の幅についての一段と踏み込んだ理解であろう。