社寺拝観制度の成り立ちと変遷 ― 拝観料、明治初頭の博覧会に起源(1/2ページ)
相国寺史編纂室研究員 藤田和敏氏
明治維新以降、神道を優位とする国家の宗教政策を前に、近代仏教教団は大きな困難に直面したが、その歩みを具体的に跡づけた研究は驚くほどに少ない。それは、各宗派に所蔵されている史料の整理が進展していないことに起因している。2010(平成22)年11月から開始した相国寺史編纂事業においては、相国寺・鹿苑寺・慈照寺での文書調査によって確認された数多くの近現代史料を生かし、明治期から現代までの臨済宗史・相国寺史の解明に重きを置いた調査研究を展開している。本論では、その成果の中から拝観制度に関わる史料を紹介したい。
寺院への参詣が庶民的な広がりを見せたのは江戸時代である。街道交通や舟運などの発達によって人々の行動範囲が広まり、寺社や景勝地などの名所旧跡への旅が活発に行われるようになった。しかし、現在のように定額の拝観料を納めて寺院に拝観することが一般化したのは明治以降である。そのきっかけになったのは、明治初頭から盛んに催された博覧会であったと考えられる。
国内での博覧会は、1867(慶応3)年に幕府や薩摩藩・佐賀藩が出品した第2回パリ万国博覧会など、幕末維新期に日本が参加した国際博覧会での見聞が引き金となって実施されるようになった。京都では、71(明治4)年10月に西本願寺で国内初となる博覧会が開催され、72年3月には西本願寺・知恩院・建仁寺において京都博覧会社主催による第1回京都博覧会が行われたのである。寺院を会場とする博覧会において入場料を設定したことが、拝観料という形で布施を定額化する仕組みの構築につながったのではないだろうか。
相国寺では、95(明治28)年4月1日から5月31日まで宝物展覧会が開かれた。この展覧会の史料が相国寺文書中で拝観に関するもっとも古い記録である。展覧会の入場者記録からは、1枚3銭の「通券」(拝観券)による拝観者8021人が寺を訪れたことが分かる。出品目録の一部も残されており、塔頭豊光寺から西笑承兌の法衣、尼門跡寺院の大聖寺から後陽成院消息などが出品されたことを確認できる。
相国寺の宝物展覧会は、京都府知事の許可を受けて開催された。寺院が展観を行う場合には、その都度行政からの許可を申請していたことがうかがわれるが、98(明治31)年に公布された内務省令第6号により、国によって社寺での拝観が制度化されることになった。以下は内務省令第6号の第1・2条である。
第一条 神社寺院及ヒ仏堂ハ、任意ノ賽物ノ外、参拝者ニ対シ何等ノ名義ヲ以テスルニ拘ハラス、参拝セシムル為メ特ニ料金ヲ徴収スルコトヲ得ス
第二条 神社寺院及ヒ仏堂ニシテ、其ノ殿堂、庭園、什宝等ヲ観覧セシムルカ為メ、料金ヲ徴収セントスルトキハ、地方長官ノ許可ヲ受クヘシ
第1条では、寺院を参拝する者に対しては料金を徴収してはならないこと、第2条では、殿堂・庭園・什宝を観覧する者から料金を徴収するときには地方長官(京都府の場合は府知事)から許可を得なければならないことが規定されている。
明治初期に行われた上知令と地租改正で領地と境内地の多くを収公されたことにより、社寺の財政は悪化の一途をたどった。明治30年代に入り、社寺財政の窮乏が甚だしくなったために、建造物や宝物の維持修理のために保存金を下付することを定めた古社寺保存法(97=明治30年6月10日公布)、上知令で没収された境内地の払い下げを可能にした国有林野法(99=同32年3月23日公布)を制定するなどの社寺支援策を国は打ち出している。
内務省令第6号も、これらの施策の一環と位置づけられる。拝観を制度化することによって、社寺が拝観収入を得ることの促進が目指されたのである。
内務省令第6号に基づき、相国寺派では鹿苑寺・慈照寺が恒常的な拝観を開始した。鹿苑寺は、98(明治31)年7月30日に京都府知事へ「殿堂庭園重宝観覧料金徴収許可願」を提出し、8月4日に許可されている。拝観料は、金閣・庭園・殿堂・重宝を縦覧する者は10銭、金閣・庭園を一覧する者は5銭であった。1920(大正9)年に前者が20銭に改定されている。