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「富士講中興の祖」食行身禄の実像 ―「神の使いに」と断食死(1/2ページ)

富士信仰研究者 大谷正幸氏

2014年3月1日
おおたに・まさゆき氏=1972年、東京都生まれ。総合研究大学院大博士課程満期退学。著書は『角行系富士信仰 独創と盛衰の宗教』(岩田書院、2011年)、『富士講中興の祖・食行身禄伝』(岩田書院、13年)。富士信仰に関する論文・研究発表多数。

富士山が世界遺産に登録され、「富士講中興の祖」として食行身禄(1671~1733)なる行者の名を聞く機会が増えた。伝統的に、彼は富士講の行者としてライバルと競った結果、自らの講を隆盛させたといわれる。また昭和に行われた研究では、彼が男女や身分の平等を説き、ミロクを名乗る救世主たらんとして富士山に死んだとさえいわれた。しかし、新しい史料の発掘や研究の進展により、それらの食行像は全て作られた幻想であると言わざるを得なくなっている。富士信仰研究の最前線は、それらを排除して真の食行像を求める段階にある。本稿では、彼の、主に若い頃を描くことで、その実像の一端を示してみたい。

1683(天和3)年、伊勢から13歳(数え年、以下同じ)の少年が江戸に出てきた。この少年は、姓を小林というが下の名は全くわからない。晩年には伊藤伊兵衛なる偽名を名乗って暮らしていたが、これもどの程度通用していたものかあやしい。

小林君は、江戸の本町三丁目(東京都中央区)に住む親類を頼って、商家の奉公人となるべく単身江戸に来た。というのも、彼の生まれた地はとても山深いところにあり、豊かな暮らしができるとは言いがたかった。また、彼には既に兄が2人おり、その点でも故郷にとどまることは難しかったのだろう。江戸の名物として「伊勢屋、稲荷に……」と言われる程、江戸に出てきた伊勢出身者は多かった。小林君の周りにも伊勢人は多かったと思われる。

小林君の親類が何を商っていたか、呉服・薬種・雑貨など諸説あるがいずれも確証はない。また江戸の町において人の動きは激しく、転職や転居は珍しくなかった。小林君も「いろいろの商売」をしたといい、晩年は油の行商で生計を立てている。また推定されているだけでも、中年以降、現在の文京区にあたる地域を妻子と共に転々としている。

小林君は17歳の時、ある富士行者の弟子となった。師の名を月行という。この人の行う富士信仰は、当時としては大変特殊なものだった。この信仰は、角行(1541~1646)という人が始めたものである。

当時の一般的な富士信仰は、他の霊山でも行われていたような、富士山の神を従来知られている神や仏になぞらえるものだった。例えば富士権現とあれば、本地は大日如来という具合である。また富士山の各所に神仏が祀られた。富士山頂も八葉蓮華に見立てられ、その峰ごとに違う仏がましますものとされた。

よりイメージに走った富士信仰もあって、『竹取物語』のかぐや姫が富士山の神として扱われたこともある。現在、広く富士山の神として信じられているコノハナサクヤヒメが起用されたのは慶長年間(1596~1615)の末期ごろであり、小林君の時代には既におなじみだが、富士山の神としては新しい。また、信仰集落の一つ村山(静岡県富士宮市)では修験道が行われており、彼らは聖護院の配下として西国に富士信仰を広めた。

富士山の神を何と見立てたかという点で富士信仰は多彩だったが、角行が始めた信仰は、仏の名前などを借りたところはあるものの、それらとは本質的に異なっていた。彼は富士山を独特のセンス、具体的には線描や勝手に作った文字で表現することにより、その霊性を表そうとしたのである。そうした図を「お身抜」という。

角行が何者であるか、自筆とされる文書類の存在から実在すること、白糸の滝や人穴という洞穴(いずれも静岡県富士宮市)で修行したということ以外、ほとんどわかっていない。伝統的に修験者出身とされるが、彼の残したものに修験道を想起させるものは皆無なので私は信じていない。わずかに残る史料から、角行は人穴や付随する建物に住み着き、単独で水垢離や穀断ちの行に励み、人の求めに応じて独特の書式による護符を書くこと(根拠はないが、私は彼の名前が「書く行」に由来しているのではないかと考えている)で金銭をもらって生きながらえていたのだろう、と想像される。

角行の弟子は人穴に住み着かなかった。孫弟子の代には江戸に出て町人として暮らした。当時、宗教は行政の統制下にあり、公認を得た宗派に属して行う職業だった。角行たちはそのユニークさ故にどこにも帰属しなかった。その弟子たちは庶民として働くかたわら信仰を続ける他なかったのである。そして、角行の孫弟子の、弟子の一人が月行であった。

月行には兄弟子がいたのであるが、両者の交流は見出されない。独立した師弟や弟子たちはお互い無関係を通していたらしい。兄弟子の系統はまた別に存続した。

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