自然と一体の「里山保育」― “本来の教育”を取り戻す(1/2ページ)
真言宗豊山派愛染院住職、木更津社会館保育園園長 宮崎栄樹氏
木更津社会館保育園の「里山保育」は2007年10月28日、一夜にして世間に認知された。NHK教育テレビ1時間半のドキュメンタリー「里山保育が子どもを変える」が放送されたためだ。
「里山保育」は、日本の植生豊かな郊外田園地帯を会場に、子どもたちが制限なく自由に過ごす。そこには水田も畑も花畑もある。農家の方々と共存しているのも特徴。イタチやタヌキ、野ネズミはもちろんトンボ・チョウなど小動物や昆虫たちの多様さは、北欧の「森の幼稚園」の比ではない。北欧の森のテーマが幻想や物語だとすれば、木更津の「里山保育」のメインテーマは野草・山のクリ・柿・ミカンそして蛇や蜂たち。時に田植えや稲刈り。
実感として目で見、耳に聞こえ、肌に触れる、そして時に鳥肌が立つ世界そのもの。「神、空にしろしめす」(ロバート・ブラウニング)の絶対唯一神の世界とは別の世界。道端のお地蔵様に手を合わせることが、神仏体験の第一歩。ノビルやアケビを口にしながら、枯れ木を集めて火をおこし、ギンナンやドングリを煎っては「うまい、うまい」と語らう子どもたちは自然を敵などと思うはずもない。春夏秋冬の野山を舞台に、自然と一体の里山物語をゆったりと紡いでゆく。
厚生労働省・文部科学省から認可され毎年、県の指導・監査を受け、専門家集団によって実施されている教育・保育。にもかかわらず、なぜこの国の子どもたちは、学校施設を破壊し、教員を傷つけ、仲間をいじめないではいられないのであろうか。神奈川県の小学4年生が自殺をするというセンセーショナルな事件から30年が経っていた。大学は高校を責め、高校は中学校を責め、中学校は小学校に責任を転嫁して今や責任は、保育園・幼稚園そして家族。一体誰が最終責任を負うのか。日本国の知性の府であるべき大学が免責されるはずがない。欧米の大学(学生の質・教育内容・教育の仕方)との違いはもはや歴然としているため、答えは海外のどこか、ハーバードとかパリとかに埋まっていると日本人は思ってきた。が常に答えは足下にあるというのが、お釈迦様の教えだ。
現代日本の教育は「見えないものを予測するレッスン」をしない。安全安心確実にすがって、過去の諸事実を覚えるだけ。過去の文献を記憶するだけ。銅像を模刻するような学習。
好奇心いっぱいの子どもたちはいらだちと欲求不満をため込んでいる。日本は指示待ちのテープレコーダー人間の養成を止める時。記憶力の勝負を放擲すべき時。神秘を尊び、直感力・構成力を養い、不思議を受け止める感覚を研ぎ澄ます。冷静に日本語を改善し、議論と表現の力を養成し、決断と意志の力を涵養する時。記憶力は重要だが、おまけにすぎない。
1999年3月、木更津社会館保育園の年長組が「里山保育」を始めた時、まず保育園・幼稚園の制度が始まる前の姿に子どもたちを置いてみようと思った。オルガンも紙芝居も折り紙もない。もちろん塀もない。あるのはトイレと雨天時の避難用家屋。そして無限の里山。「途中でお百姓さんに会ったら必ずあいさつをするように。畑や田んぼに入ってはいけない」とだけ言って、担任と子どもたちを送り出した。
何もないように見えた野山は、通い慣れるうちに宝の山であることが判明してきた。昆虫も子どもたちの目線からすると、目の前にいくらでも現れてくる驚き。元々、椅子に座ってじっとしているよりも、野山を歩き回る方が当たり前に出来ていた子どもたちの身体は、たちまち本来のいきいきした姿を取り戻していった。
昔の子どもたちは1日2万歩歩いていたと聞いて、万歩計を持たせてみると、「里山保育」の日はまさに2万歩。そして何よりも親たちが「里山保育」に反対しなかったのが、ありがたくも不思議だった。聞くところによると、「里山保育」の日は、戻ってきた子どもたちが素直で、すぐに寝てくれるとのこと。さもありなん。
里山こそは彼らのご先祖様の故郷。そこに展開される景観の全てが、懐かしい先祖伝来の高雅で優美な想い出そのものに違いない。