内と外から見た神道 ― 自然への畏敬は世界に遍在(1/2ページ)
比較文化史家 平川祐弘氏に聞く
仏、伊、独への留学経験や北米での教育経験を持ち、『神曲』の訳や『ダンテ「神曲」講義』をはじめ著訳書の数多い比較文化史家の平川祐弘・東京大名誉教授。近著『西洋人の神道観―日本人のアイデンティティーを求めて』(河出書房新社)は、2012年にパリで同じ題のフランス語著書を刊行したのに合わせて東京で行った連続講演に基づく。日本固有の宗教である神道を、来日した西洋の作家や学者はいかに捉えたか。それを論じることで日本人のアイデンティティーとは何かを世界的視野からアプローチした平川氏に、同書の論点を聞いた。
幕末の開国以来、来日した西洋人の日本研究者はキリスト教宣教師系統と非宣教師系統の2系列があります。前者がキリスト教を広めるのに熱心なために神道が理解できず否定的な評価を下したのに対し、後者はキリスト教ではない文明に面白みを感じた。
西洋人にとって、仏教は教祖がいて経典がありますから言語学、宗教学的に勉強のしがいがあり、本人が仏教徒にならなくても学問的敬意が生ずる。ところが神道は教理や経典よりも祭祀や儀礼が重んじられるので、文献学から入る西洋人には理解しにくい。神道を分かる人というのは読む人ではなく、眼の人、耳の人、感じる人です。西洋文明の優位を確信する価値観に異論を呈し、神道に理解を示したのがラフカディオ・ハーン(1850~1904)やポール・クローデル(1868~1955)などでした。
ハーンはフランス領西インド諸島のマルティニークでルポルタージュ記者として名を成した後、1890年に来日しました。父親がアイルランド人、母親がギリシャ人で、古代ギリシャに対する憧れがあり、西洋では既になくなったはずの多神教の世界が日本には生きているのでうれしくてたまらなかった。彼は神道に関心を寄せ、出雲大社に初めて正式参拝した西洋人です。お盆などの風俗の中に日本人の霊の世界を見いだし、宗教がどう溶け込んでいるかに着目し、数々の怪談を書いた。祖先崇拝をはじめとする日本人の宗教風俗をハーンは共感的に理解しました。
カトリックの詩人で外交官のクローデルは、十数年中国で勤務し、1921年から6年間東京で駐日フランス大使を務めました。西洋人には同じ東アジアの国で区別がつきにくいが、クローデルは中国になくて日本にある要素は神道で、それが日本の特色だと敏感に気づいた。
フランスの農村に生まれ、大地の霊というものに強くひかれた人です。郷里へは私も訪ねたことがありますが、峨々たる岩のむき出しになった土地で、キリスト教以前の大地に根差した信仰がどこか残っている感じがしました。それで日本人の自然に寄せる信仰に共感できたのだと思います。
クローデルは富士山を日本人と同じような感覚でたたえました。自然が創造主のために打ち立てた祭壇だと書いている。カトリックの信仰と神道の自然への信仰は彼にとって矛盾せず、両立するものでした。大正天皇の御大喪に参列したときには、日本人の神道の特徴は畏敬の念であり、道義の感覚は清らかさに由来すると印象を記しています。
私たちの世代は敗戦直後の米軍占領下に教育を受けたので、神道は日本の国家主義と関係し、表立って口にしてはいけないもののように感じていました。一高時代は全寮制で、不破哲三らと一緒に暮らしましたが、当時は各国共通の歴史進歩の法則が信じられ、神道などは問題にもされなかった。
修士論文は書物にもなった『ルネサンスの詩』で、神道的感覚の人間にはロマネスクの彫刻が趣味に合うと書いたのが神道について活字にした最初です。私はフランスの詩人ロンサール(1524~85)が自然をうたった詩が好きで、そこにはギリシャ神話の神々の名前が数多く出てきます。それは文芸復興期の詩人が書物の知識から森の精とか水の精を生き生きと蘇らせたのではなく、古代からのアニミスティックな感覚が伝わっているからギリシャ神話に触発されて自然の万物に霊が宿るという感覚が命を帯びたのでしょう。
比較文化史家 平川祐弘氏に聞く