重要文化財新指定の「中山法華経寺文書」その全貌(2/2ページ)
立正大名誉教授 中尾堯氏
もう一つの国宝『立正安国論』が中山法華経寺の宝物になったのは、2代の住持となった日高の時である。嘉元4(1306)年正月4日付の「沙弥道正授与状」によると、この書を直接に戴いた八木式部太夫胤家から、弘安8(1285)年に沙弥道正に授与され、さらに嘉元4年に住持の日高に授与された経緯がわかる。
当時は、法華寺の日常が、隣接する本妙寺の住持を兼ねる両寺一寺の制をとり、これを継いだ日高は中山の本妙寺に住んでいた。この両寺が合体して中山法華経寺となったのは、天文14(1545)年正月14日付の「足利晴氏安堵状」による寺号改称である。
3代の住持を継いだのは日祐で、下総国の守護の系譜を踏む千葉胤貞の養子であった。俗別当となった千葉胤貞の威勢を背景に、中山本妙寺を中心に堂舎を大いに整えて、一門の勢力を全国的な規模にまで拡大した。
中山法華経寺の初期におけるこのような動向は、日蓮聖人の豊かな真蹟遺文と、日常・日高・日祐の3代にわたる古文書により、その大筋がたどられる。さらに、聖教殿にある日常『本尊聖教事』と日祐『本尊聖教録』『文書事』によって、深化される。
原本は失われているものの、日祐『一期所修善根記録』の記事を加え、古文書のみならず金石文までを対象とする、末寺の現地調査の結果を総合すると、日蓮宗という新しい教団の成立事情を、農村の細部にもわたってかなりはっきりと描くことができるだろう。
中山法華経寺の大檀越の千葉氏は、やがて没落の運命をたどる。しかし、寺そのものは新たな支援者を得て法灯を維持し、やがては江戸幕府の寺院統制のなかに組み込まれてゆく。近世初頭に起こった真蹟遺文の流出事件は、その責任を取らされた住持が追放され、代わって上方の僧が任じられるようになる。やがては、京都の頂妙寺と本法寺、堺妙国寺の貫首による「三山輪番制」が定まった。
中山法華経寺文書の中世編は、守護千葉氏の従者であった富木常忍が、日蓮聖人に従って法華経の信者となり、その寺が中世をとおして時代的な変貌を遂げて行く姿を物語る文書群である。その研究成果の一つが、中尾堯『日蓮宗の成立と展開―中山法華経寺を中心として―』である。
近世以降の文書について、昭和18年4月11日に法華経寺の庫裡と大書院が焼失したことは考慮しなくてはならない。この大火によって、「紺表紙」と呼ばれていた寺務日記をはじめ、多くの古文書が焼失してしまった。ところが、幸いなことに「貫首要函」という秘蔵の文書群がたまたま残っていた。これを整理し目録化したのが、この近世文書である。いわば、上方から輪番で赴任してきた貫首のみが閲覧できる文書である。
全体で730点に上る近世の古文書は、主として寺院の運営に関わる内容のものである。帳簿類が多く、貫首としての役割を果たすために実際に閲覧していたものとみられる。これらの古文書を、経済、行政、信仰に3区分して整理されている。
まず経済では、『勧金帳』『収納帳』等によって、江戸の町や近在の農村に広がる題目講などの信者からの収入がまず注目される。次いで、安定的な収入源となる寺領の原簿『法華経寺寺領分見帳』の一部があり、年貢収入規模がうかがえる。夏の千部会には「千部積金」を蓄え、これを祠堂金として末寺に貸し出し、秋のお会式の折に利子をつけて返済する、『千部基金積立帳』『千部元金積立加入者連名帳』等の原簿がある。
これらの古文書によると、近世の中山法華経寺の収入は、参詣者の施入・寺領からの年貢・末寺への祠堂金貸出の利子という、三方面から得ていたことがわかる。
支出について、経常費等の記録は見られず、これらは大書院の昭和大火によって「紺表紙」と共に焼失したのであろう。ここに残るのは堂舎の大修理関係の古文書で、伽藍の維持が巨額に上る様子がうかがえる。
行政では、上方から赴任してきた貫首がまず読むべき、幕府や一門との歴史や掟を集成した『治要録』が注目される。次いで法華経寺の規律を定めた『正中山永代式目』、末寺帳や年中行事など、寺院運営の基本的な帳がある。このように、中山法華経寺の近世文書は、一山を統率すべき貫首に相応しい、寺院と一門を俯瞰できる文書として重要である。まさに「貫首要函」としての内容を備える古文書群である。
中山法華経寺の草創期から今日に至るまでの、長い歴史を物語る古文書が、新たに重要文化財に指定された。この文書群は、寺院が継承する法灯とは何か、いかに継承すべきかに、重く答えてくれるに違いない。