林住期の生き方(2/2ページ)
大谷大教授 山本和彦氏
現代社会でも、学生は勉強することが求められている。学校を卒業すれば、仕事をしなければ生活が成り立たない。家族があれば、その生活を守らねばならない。いまの日本で定年後に、古代インドのように森林で原始的な生活をする人はいないだろうが、それに代わる生活が必要である。インドの林住期の理念は、物質的繁栄から精神的繁栄へと努力の対象を替えることであった。ブッダの場合は、出家から成道までは自分のための精神的繁栄を求めた修行の時期であったが、成道してからは他人の精神的繁栄のための時期であった。
そこで、古代インドでは林住期に相当するが、定年した現代日本人は何に対して努力すべきなのかという問題に直面することになる。学生時代や社会人になり家庭のある時代にも、われわれは努力して生きてきたはずである。林住期には、他人に対して自分の得た知識を伝える、つまり自分の経験を社会に還元する努力をしなければならない。これは多くの経験を積んできた老人の林住期での使命である。使命を果たすことは生きがいにつながる。知識は、さまざまなところから得ることができる。学校や本がそうである。そういう知識は基礎として必要である。さらに、本当の知識、使える知識、生きた知識も必要である。そういう知識は、自らの体験からでしか得ることはできない。
このことは、古代インドの『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』のなかで、次のように言われている。「無知を崇拝する者たちは、盲目の暗闇に陥る。世俗知に満足する者たちは、そこからさらなる闇に陥る」。盲目は無知の比喩である。世俗知とは、頭で理解できる知識のことである。知識はここで終わりではない。真の知識、真理知は自らの体験から湧き出てくる経験知のことである。ここでの文脈では、経験知とは瞑想によって得られる知識のことであり、最終的にはこの知識により人は解脱に至る。しかし、解脱を目指さない現代人は、瞑想でなくても、自らの経験によって得た知識と読み替えてもよいと思われる。何の経験もなしに、定年まで生きてきた人はいない。程度の差はあるが、何らかの経験はしてきたはずである。そこから生じてくる知識こそが本当の知識である。この知識は人間を変える力を持っている。
戦争を経験していない人でも、歴史書を読んで、過去の戦争から考えることはたくさんあるだろう。しかし、実際に戦争を経験した人と同じ次元ではない。
筆者は、インド留学中の1991年に湾岸戦争を経験した。商店から食料品が消え、ガソリンスタンドにはクルマとバイクの長蛇の列ができた。そのときに、普通のインドの家庭は1年分の米を備蓄していることを知った。平時には、インド人は現金ができると金(きん)の装飾品に換えていた。戦火がおよぶとその金だけを身につけて逃げるのである。戦時に銀行貯金と所有している土地は何の役にも立たない。たまたまインドに住んでいる無知な留学生と、英国からの独立後も戦争を経験しているインド人とでは、知識の有無と使い方が何もかも違っていたのである。
経験によって自らの内から出て来る知識は、生きた知識である。それを言葉で他人に伝えることは難しい。生きているからこそ言葉にすると死んでしまう。教師が学生に勉強しろと言っても、学生は教師の言葉通りに勉強するわけではない。言葉以外で伝える手段が必要である。それは教師が学生とともに勉強することである。
何かを伝えるとは、一緒に実行することである。身体を動かし、手本を見せる。できれば一緒に働く。家住期では、自分のために働いていた。しかし林住期には、林住期であるからこそ、他人のために働くことができる。働くとは、労働だけではない。身体を動かすこと全般である。年金があれば、賃金にこだわらなくなる。お金に縛られない生き方ができる。林住期では、他人のためが生きがいとなり、そういう働き方ができる。そういう使命が持てるようになる。他人のために身体を動かすことは、健康にもつながり一石二鳥である。
林住期とは、人生を振り返ることができる特権の時期であり、もう他人と競争しなくてもよい。欲望を捨て、自分の精神性の向上を目指す。人生の後輩に対して役立つ知識を伝える。身体を動かし、健康を維持する。人間関係を整理し、ストレスを減らす。多すぎる財産があればどこかに寄付し、少ないお金で人生を大いに楽しむ。怠ることなく実行できるかどうかは、本人の努力次第である。