寺族女性と過疎地域寺院 ジェンダー平等な社会を目指して ― 過疎地寺院問題≪5≫(2/2ページ)
名古屋大助教 横井桃子氏
つまり、地域住民である檀家が住職夫婦に対して地域貢献を期待するのと同時に、住職夫婦の側も檀家に寺院への協力を期待して地域の役員などを引き受けている。もちろん、何の見返りもなしに檀家や地域のためにはたらこうと志す「聖職者」は多いだろう。しかし顔見知りばかりの小さな地域では、「おたがいさま」という共通の意識のもとで地域に貢献した結果、コミュニティーが維持されていくという側面がある。こうした「おたがいさま」のサイクルの結果、人々のつながりが強まり地域の連帯が強化されていく。
しかし私は、誤解を恐れずに言えば、こうした住職の配偶者・寺族女性による地域への協力や人々との豊かな交流がコミュニティー維持の機能を果たしているからといって、彼女らのはたらきぶりを称揚し、「これこそ寺族女性が担うべき役割である」と結論づけたいわけではない。むしろ、そうした役割を寺族女性が担うことで生じるマイナス面は何かということが議論の主眼である。寺院と地域の活性化に寄与してきた寺族女性のはたらきを正当に評価するということは、当該の寺族女性たちがその役割を担うときに、不利益や不均衡が生じている可能性を見極めることなのである。
先ほど紹介した地域で活躍する坊守たちの語りへ戻ろう。「おたがいさま」「持ちつ持たれつ」の意識で地域へ協力していた坊守のなかには、実のところ門信徒との付き合い方に相当の気づかいをしている者も多かった。「特定の人と仲良くしていると思われないように、まんべんなくお付き合いするように気を付けている」。どんな人にも平等に接し、人間関係を潤滑にするはたらきを求められる坊守は、その役割ゆえ、地域内でプライベートかつ親密な人づきあいが自由にできないのである。“女性ゆえに”“坊守であるがゆえに”こうした細やかな配慮が求められ、人づきあいの制限を受けるのであれば、それはジェンダーによる不利益や不均衡が生じているのだと言わざるをえない。
宗教関係者の中には、女性にしかできないことがある、と寺族女性の役割をある意味で好意的に評価する者もいる。しかし一方でその評価そのものが、寺族女性の役割を限定し、ひいては男性たちの役割をも排外的なものにしてしまう。寺院運営を担い地域を支える宗教者の役割を性別によって固定することは、多様性の否定なのである。
また、女性にしかできないことはあまり多くなく、大抵は男性も女性もできることであることが多い。育児を例にとってみても、育児が「女性にしかできないこと」であるよりも「女性も男性もやってもいいこと」のほうが、世の中はずっと生きやすい。寺族女性がやっていることを、男性住職・寺族男性が担っても問題はないはずだ(逆も然り)。もしそれが難しいとか違和感を覚えるのであれば、それを生じさせている社会のありようを見つめ直さなければならない。
「女性の社会進出」が叫ばれて久しい。総務省の発表では、2019年6月の労働力調査で女性の就業者数が3003万人と初めて3千万人を突破し、男性就業者数3744万人と合わせた就業者数も過去最多となったという。数字上だけでなく多くの人が、昔と比べて働きに出る女性が多くなったという実感を持つだろう。社会が大きく変貌を遂げる現代においてすべての宗教者が価値観のアップデートをはかる時がきている。
農山漁村、とくに過疎地域ではいわゆる伝統的な価値観が主流かもしれない。しかし、都市部よりも地方で子育て世帯の共働きの割合が多い(平成29年就業構造基本調査より)ことを考えれば、地方で生きる女性たち(そして男性たち)を支えようとする寺院があっていい。そのためにまず、身近な存在の寺族女性と彼女らをとりまく社会に少し違った視点から目を向けることから始めてはどうだろうか。多様性を受け入れる伸びしろは地方にこそ残っているし、仏教思想の根幹をなす平等の理念はジェンダー不平等な社会を作り変えていく力を持っていると信じたい。