總持寺中興石川禅師の遺徳を偲ぶ③ ―100回御遠忌に寄せて―(2/2ページ)
愛知学院大名誉教授 川口高風氏
禅師の布教教化と著作
1905(明治38)年5月6日に總持寺貫首に就任以来、石川禅師は全国へ巡錫されたが、「總持住山年譜」によれば、遷化する20(大正9)年11月まで、338回の因脈会、授戒会に御親化している。また、本葬の秉炬師や落慶式、歴住の年忌法要などにも招請され、北海道から九州まで教化の旅を続けられた。05(明治38)~07(同40)年には日露戦争での戦死病歿者の追弔法会や忠魂碑の開眼供養も行っており、司令部聯隊の慰問にも出席している。
08(同41)年10月には台湾へ行き、縦貫鉄道の開通式に参加。台北の両本山別院の地鎮式に御親修し、10(同43)年5月には韓国釜山の総泉寺の授戒会に上山している。このように国内のみならず海外にも巡錫の足跡を残した。
38歳の1879(同12)年から翌年3月まで、東京駒込の吉祥寺にあった曹洞宗専門学本校の学監を務めた。これは「明教新誌」第966号による説で、禅師より以前の学監には折居光輪や古田梵仙が就いており、禅師が何を講義していたかは明らかにならない。また、83(同16)年4月には曹洞宗大学林の学監に任命されている。ただし、これは「御小伝」と「行実」にある説で、大学林は新たに麻布区北日ヶ窪町に敷地を買収して移転した。85(同18)年8月に辻顕高が総監に任命されるまで旧専門学本校の慣例で運営されていたが、残念ながら当時を知る資料はなく、禅師の学監時代は明らかにならない。しかし、翌86(同19)年11月には總持寺監院に就いているところから、学監は1年程であったと思われる。
禅師の著作として6点が挙げられる。著作でないものや同本異題もあり、禅師自身による執筆というよりも御垂示や法話、講演を弟子や随身らが編集して刊行したものが多い。『大本山總持寺御由来抄』は1900(同33)年4月3日に總持寺の東京出張所より刊行されたが、同日に畔上楳仙禅師の『總持開祖御伝抄』(瑩山禅師の行状が説かれたもの)と『總持開祖御教義抄』(『伝光録』の古則公案から金言を選出したもの)も同じ型で発行されているため、本書も事実は畔上禅師の著述かもしれない。
『十種疑問落草談』は『曹洞宗全書』年表の02(同35)年2月に石川禅師の刊行とあるが、同書は畔上禅師の御垂示で、それを侍者が筆記したものである。石川禅師は編集兼発行者となっており、著者ではない。『夜明簾』は禅師の法話を高橋定坦(竹迷)が編集したもので、15(大正4)年11月に鴻盟社より刊行された。『獅子吼』も禅師の御垂示、教誨を高橋竹迷が編集したものだが、禅師の喜寿を迎える記念出版でもあった。17(同6)年2月に松栄堂より発行されたが、22(同11)年4月に同じ内容のまま『現代と修養』と改題して愛国社より再版されている。その広告によれば「面白い本で、タメになる本、読むことによってコセコセしない楽観的な誰にも好かれる性質の人となる」といわれる。
次に遷化された後に刊行したものがある。『伝光録白字辨』は瑩山禅師の『伝光録』を禅師が提唱、御垂示したもので、それを侍者が筆録した。25(同14)年3月に刊行される際、新井石禅禅師が補筆している。32(昭和7)年には語録の刊行会が結成され、10月に『大圓玄致禅師語録』を刊行した。天・地・人の3冊に法語や賀偈、題讃、銘など禅師の煖皮肉が所収されており、法嗣の稲寸篤恭、山田奕鳳らによって編纂された。なお、語録を刊行する前の4月には、従来口伝により書写されてきた『戒会指南記』が語録刊行会より発行されている。その他、日常読誦される『法華経』の寿量品や安楽品に石川禅師が訓点を付した経本も其中堂より刊行されている。
このように石川禅師は、全国へ御親化に巡るとともに教育機関にも就いており、生涯に説かれた獅子吼が語録となり著作となって刊行されている。