總持寺中興石川禅師の遺徳を偲ぶ① ―100回御遠忌に寄せて―(2/2ページ)
曹洞宗総合研究センター専任研究員 宮地清彦氏
艱難辛苦乗り越え御移転
明治の總持寺史を見ますと、維新以降、諸方面で危機に瀕した總持寺を再建すべく、石川素童禅師は独住第四世に御就任される前から携わられ、かつ独住第二世畔上楳仙禅師、第三世西有穆山禅師のお二人とともに艱難辛苦を乗り越えられたことが分かります。
その最たるものが、1898(明治31)年4月13日に總持寺を襲った大火でした。同日午後9時過ぎ、總持寺大祖堂御真殿左側から出火し、仏殿・紫雲台・跳龍室・放光堂等の諸堂は全て灰燼に帰し、翌14日深夜に鎮火したとされています。
当時、畔上禅師の御指示の下、東京出張所監院であった石川禅師は帰山後、現地調査を試み、即座に宗務局・全国末派寺院へ罹災情況を報告し、東京出張所に再建本部を設置。約半年後、本部長である石川禅師は總持寺の末派寺院を招集し、30人の議員を選抜して總持寺再建直末大会議を開くことになります。少し時間を遡りますと、明治20年代後半の両本山分離問題を含め、總持寺に起きた諸事と畔上禅師が相対する時、必ず側近として石川禅師はいらっしゃいました。お二人の間にある信頼感が、宗門未曽有の危機を超克させる第一歩となるのです。
大火から3年後、独住第三世となられた西有禅師は、總持寺御移転をめぐって様ざまな困難や賛否両論の嵐に遭う石川禅師に「今はじっくりと事に当たり、しっかりと己の力を養っておきなさい。いずれその力を揮う時が来る」と激励の意を示されています。畔上・西有両禅師から託された本山再建への思いが、石川禅師の内なる活力となったのは言うまでもありません。
当然の事ながら、石川禅師は總持寺を開創された瑩山禅師の御遺志も顧慮されていました。石川禅師著『獅子吼』下篇「總持寺の性格」を見ると、能登の地に対する深い愛情も示されつつ、これからの曹洞宗はより社会と密接した形で、新たな教導の道を歩まねばならぬ、それは瑩山禅師の教えに適ったものである、と石川禅師は説かれています。これは『伝光録』第十四祖章で、山林の中で一人きりの修行のみを修行の本筋とはせず、多くの人とともに修行する大切さを説かれた、瑩山禅師の御言葉から来たものと思われます。
地元新聞のスクープにより、總持寺の復興を願う能登の地の方々は鶴見移転を知ることになりました。以降、地元では幾度も僧俗ともに移転反対集会を開き、石川県知事への陳情、そして大隈重信伯への意見具申にまで至るのです。能登の方々の思いもやはり強かったのです。
このような中、1906(同39)年12月5日、石川禅師は石川県知事に「曹洞宗大本山總持寺移転願」を提出し、翌年1月、知事の仲介により鶴見移転へと決着を見ることとなりました。そこでは「總持寺別院(以下、別院と略。現在は祖院と呼称)」建設に関して「啓沃書」が交わされ、いくつかの条文は、能登の方々の熱い思いが結実したかの如く、別院の存在が宗門内にて確固たる地位にあることを謳ったものとなっています。
これを受けた形で、07(同40)年3月に別院大祖堂の、翌年11月には鶴見で伽藍造営のそれぞれ起工式が執り行われました。そして、10(同43)年9月、石川禅師御参会のもと、盛大に別院大祖堂落成奉安式が執り行われ、約1年後の7月、正式に總持寺が鶴見の地に移り、能登の祖廟が別院となることが決定しました。能登の祖廟の発展に先んじることなく、まるで敬意を示すかのように、鶴見の總持寺は歩を進めていったのです。
これこそ、鶴見の總持寺が新たな一歩を踏み出す上で、宗門の歴史と能登の別院への尊崇の念を表さんとした石川禅師の並々ならぬお志による偉業ではないでしょうか。