總持寺中興石川禅師の遺徳を偲ぶ① ―100回御遠忌に寄せて―(1/2ページ)
明治大名誉教授 圭室文雄氏
1911(明治44)年、石川県能登から横浜鶴見に曹洞宗大本山總持寺が移転した。計画から実行までを統理し、鶴見における同寺の礎を築いた石川素童禅師(1841~1920)。今年11月2~5日、「石川素童禅師100回御遠忌」を迎えることから、6人の宗門研究者が禅師の足跡や横顔、近代の曹洞禅と同寺復興の歩みなどをたどる。(全3回)
幕末の大本山總持寺
幕末の大本山總持寺は末寺約1万7千カ寺を支配していました。その中から有力末寺約150カ寺が總持寺住職になる資格を持っていました。毎年5カ寺ずつが選抜されて、五院(普蔵院・妙高庵・洞川庵・伝法庵・如意庵)の住職に1カ年就任します。1年のうち、この5人が交代で75日ずつ總持寺住職を務めていました。總持寺の経営は①加賀藩主前田家からの寺領400石②毎年転衣僧1人が納める金5両、250人分合計約1250両③様々な祠堂金貸付(金融業)の利息10~12%はかなり多額の収入。このような潤沢な収入に支えられて、1841(天保12)年には總持寺山内に僧侶・俗人を合わせて170人の人々が暮らしていました。境内の塔頭は先述の五院をはじめ、塔司と呼ばれる22カ寺があり、合計で27カ寺ありました。また門前に住む商人や職人、その家族も總持寺の経済力を頼りに生活していました。
明治初年の總持寺は明治政府の神仏分離政策により急変します。幕府の仏教保護政策から神道保護政策に急旋回し、神道国教化政策が中心になりました。このような動きは全国で廃仏毀釈運動となっていきました。その結果、總持寺末寺の多くも廃寺に追い込まれました。
明治政府の中核となった鹿児島藩を取り上げますと、曹洞宗福昌寺は總持寺の有力末寺で、中世以来、藩主島津氏の菩提寺でしたが、鹿児島藩は69(明治2)年、福昌寺の破却を手始めに領内の各宗派全寺院1066カ寺を破却しています。このような動きはその後、全国に展開していきました。總持寺自身も寺領400石は全て没収され、五院に毎年輪番として上山していた末寺住職も経済的な理由で上山できず、69年に五院輪番制度は廃止され、總持寺は独住制度に改変されました。一方で、転衣僧の数も激減しました。さらに祠堂金貸付は、金沢では加賀藩、江戸では関三刹、京都では海老屋にそれぞれ運用を依頼していましたが、いずれも元金すら返済されず、苦境に陥りました。なお總持寺が抱えていた借入金は返済を迫られ、本山の経営は立ち行かなくなりました。
98(同31)年4月13日、輪島市門前にあった總持寺は出火で、境内にあった70余棟の建物の大半をなくしました。この時の總持寺住職は独住二世畔上楳仙貫首、監院は石川素童老師でした。とりわけ再建計画に当たったのは石川老師でした。總持寺経営がやっと軌道に乗りかかっていた時だけに、この大火は驚嘆すべき出来事でした。しかし、この後、日露戦争が勃発し、再建のための寄付金徴収もままならず、時間は経過していきました。
1905(同38)年、独住四世貫首に石川素童禅師が就任すると、總持寺再興に本格的に取り組むことになりました。計画は大別すると二つでした。①輪島市門前に元通りの伽藍を建築すること②行政の中心地が京都から東京に移ったため、東京かその近郊に本山業務を移すこと――でした。
石川素童禅師は大火後、14年目の11(同44)年、この二つの計画を実現しています。總持寺本山はこの年、横浜市鶴見に移され今に至ります。石川素童禅師の政治力もさることながら、波乱万丈の生涯の中で、実現されたことは見事と言うべきことと思います。總持寺中興の祖として高く評価すべきです。