「古義大学林の尼僧学籍簿について」を問う(2/2ページ)
高野山大総合学術機構課長 木下浩良氏
初級から3級卒業者には権律師、4級卒業者には律師、5級卒業者には権少僧都、6級卒業者には少僧都、7級卒業者には権中僧都、8・9級卒業者には中僧都の僧階が与えられた。将来に権大僧都以上の僧階を得るには、9級全科卒業をしなければならなかった。
そして、9級全科卒業者は卒業後の功労により、僧階は具進されるとされていた。古義大学林での学歴が、卒業後の僧階を左右していたのである。この頃、布教の第一人者とされていた泉智等師(後に古義大学林第6代総理)が、40歳を過ぎて大僧都を申請しても容れられなかった時代のことである。9級全科卒業には7年は必要とされたが、進級については年限に限らず、各級の試験に合格さえすれば上級へ進むことができた。最短で、4年程度で9級の全過程を終了することができた。
また、古義大学林生は、必ず金剛峯寺に交衆して学会を受けねばならなかった。初級が昇口で、9級全科卒業者は学会2年目が終わっていた。この点も、極めて注目される。逆を言えば、学会2年目を終えるには、9級全科卒業をしなければならなかったのである。このことは、古義大学林に入学した尼僧も金剛峯寺に交衆して学会を受けて昇口の位置にいたことになる。現状では、学会は男性だけとなっているが、明治期の高野山においては極めて柔軟な運用をしていたのであって、むしろこの点だけでも注目されるのである。
古義大学林生は、進学生と住学生の二つに分けられていた。進学生は9級全科卒業を目指す学生のことで、今日でいうエリートコースのことである。この全科卒業生は、毎年若干名しか出なかった。
明治21年、初めての9級全科卒業生を古義大学林は輩出したが、松永昇道師(後に東寺派管長・京都専門学校長)の1師のみであった。翌22年には加藤諦見(後に高野山大学林教授・古義真言宗管長)、重松寛勝(後に高野山大学林講師・小野派管長・隨心院門跡)、聖山浄憲、高岡隆心(後に本学初代学長・古義真言宗管長)の4師、翌々年の23年には山縣玄浄(後に高野山大学林講師・日清戦争に従軍布教師として活躍。「山縣の高野山」と称される)の1師だけであった。全科卒業生は、将来は金剛峯寺座主となり、東寺長者候補にものぼり詰めると学則ではうたっている。
他方、住学生とは、3・4級卒業をもって古義大学林を退学して自坊へ帰郷する大学林生のことである。地方の末寺の子弟にとっては、権律師・律師の僧階を受けて、住職の資格を得れば十分だったのである。古義大学林生の99%以上が住学生であった。ただし、古義大学林の5級以下の住学生卒業者は、満40歳までは寺院住職であっても、毎年1度、古義大学林で開かれる宗意・安心等の試験を受ける義務を負っていたのであった。
尼僧の入学者も、9級全科卒業生には該当者がいない以上、住学生であったことが考えられる。住職となるための僧階を得て、高野山を早々に下山したのではないかと推察するのである。初級から3級卒業者には権律師の僧階が得られたことは、前記の通りである。おそらく、尼僧は1年を経ずして古義大学林を卒業したのではなかろうか。
以上、古義大学林における尼僧の大学林生について私説を述べさせていただいた。この尼僧の入学については、高野山大学史においては極めて重要な問題点であり、あえて反論を述べた次第である。
ただ、松山氏論考においては尼僧の追跡調査等これまで不明とされたことが明らかになされている。この点については、筆者も松山氏から新知見をいくつもいただいた。そのことについては松山氏の調査研究に敬意を表すとともに、筆者としても古義大学林における尼僧の入学について、さらに調査をすすめ、史料の発掘と博捜に努めることを宣言して本稿を擱筆したい。