専修寺の伽藍配置と御影堂如来堂(1/2ページ)
三重大学名誉教授 菅原洋一氏
昨年11月、津市一身田町の真宗高田派本山専修寺の御影堂と如来堂が国宝となった。真宗教団の中で仏堂の国宝指定は、本願寺の御影堂、阿弥陀堂についで、2例目である。本願寺が親鸞の廟堂から寺院化したのに対し、高田派は親鸞に教えを受けた関東の門弟が中核となって、下野高田の専修寺を拠点に成長を遂げた教団であり、最初期の真宗において中心的な位置を占めた。この高田派が、関東から遠く離れた伊勢の地、一身田に設けた拠点が後の専修寺であり、その起源は15世紀末頃に成立した無量寿寺(院)に遡る。ここは、やがて高田と同名の専修寺と称されるようになり、江戸期には高田派の本山となった。本願寺とは異なる成り立ちの、高田派本山の専修寺が国宝に加わったことは、真宗の建築や信仰のあり方の、より深く多面的な理解につながるものと言えよう。
専修寺と前身の無量寿寺は草創以来、天正8(1580)年、正保2(1645)年の2度の火災に見舞われている。現伽藍は正保の火災後、万治元(1658)年に津藩により土地が寄進されて、境内を西側に拡充し、東西本願寺に匹敵する規模として整備したもので、この時に一身田の町も西側に規模を拡大し、全体を環濠で取り囲む形態となった。
伽藍の整備は土地寄進の翌年に始まる。寛文6(1666)年頃には、御影堂が概ね建ち上がり、同12年には宗祖親鸞の遺骨を祀る御廟が完成し、延享5(1748)年には如来堂が竣工した。火災焼失から100年余りの歳月を掛けて、主要部が整備されたことになる。
現境内のうち正保火災以前の範囲は、全体の約3分の1を占める東寄りの部分である。主要堂宇は、西寄りの新たに拡充された部分に設けられた。ここでは御影堂と御廟を拡充範囲の東西に、如来堂をその中間に配していずれも南面させている。これは東西本願寺の両堂が東面するのとは異なるが、当地は東風が強く東面堂では風雨の支障があり、東西に長い敷地の形状からも南を伊勢別街道が通ることからも南面が良いとの理由による。
真宗本山は今日、いずれも御影堂(または大師堂)と如来堂(または阿弥陀堂)を備えており、両堂が並列する配置は、本願寺では15世紀には成立していた。専修寺では、このような配置が正保火災以前にあったとは考え難く、現伽藍で成立したと思われる。しかし、専修寺の伽藍配置は、両堂と宗祖親鸞の御廟が並立する新規性のある配置と解するべきで、本願寺と同様の両堂並立と見るのは正確ではない。両堂と御廟を横一列とする配置は、御影堂の着工時には構想があり、歴代の関係者に継承され、ほぼ80年後の如来堂の建立で完成されたのである。
真宗本山で両堂と御廟が近世に遡り、同一境内にあるのは、一身田の専修寺、木辺派本山の錦織寺と高田派旧本山である下野高田の専修寺のみである。その中で、両堂と御廟が一体的に整然と配置され、一望できるのは一身田の専修寺以外にはない。真宗本山の伽藍配置の新たな定型がここに成立したと言えよう。
津藩の支援を得ていち早く整備された御影堂は、和様を基調とする入り母屋造りの堂で、東大寺金堂、本願寺御影堂に次ぎ、知恩院本堂(御影堂)とほぼ同規模となる。我が国有数の巨大建築である。
御影堂は、平面と内部空間の構成が、本願寺御影堂はじめ他の真宗本堂とかなり異なる。最も特徴的な相違は大間と中陣の奥行きが浅く、また内陣・余間の正面全長に及ぶ横長の空間となることである。大間は天井の高く広々とした近世的な大空間であるが、中陣は奥行き方向に天井の梁を架け、これを柱で支えている。中陣に施された彩色も相まって、ここは中世密教寺院のような力強く華やかで落着いた内部空間となっている。これは、天井を越えて小屋裏で直接に小屋梁を受ける建て登せ柱と、古代中世以来の伝統的な柱を巧みに使い分けた結果である。近世の大規模な仏堂では、構造的な理由から建て登せ柱を用いることが多いが、御影堂ではその使用を大間などの重点的箇所に限定し、中陣は伝統的な柱を主体としている。意匠的な効果の異なる2種の柱を使い分けて、特徴ある内部空間をつくり出しているのである。