浄土宗の御詠歌(1/2ページ)
佛教大宗教文化ミュージアム館長 小野田俊蔵氏
江戸幕藩体制下の仏教教団の多くは幕府によってすすめられた檀家制度に基づく組織によって守られてきたが、一転して明治維新になると、廃仏毀釈や一連の宗教統制によって寺領からの収入というものが閉ざされ、宗派独自の独立した経済基盤を確立する必要に迫られた。寺領という土地からの収入という点で恵まれていたのは、天台宗や浄土宗あるいは真言宗や臨済宗などである。一方、浄土真宗や日蓮宗などは寺領の恩恵にあずかることは元々それほど多くはなかった。つまり、逆に言うと明治維新によって「上知令」が発せられ、寺領からの収入を閉ざされても衝撃が少なかったのは浄土真宗や日蓮宗であった。これらの宗派はすでに布教活動の基盤を作る「講」組織に類する下地、つまり末端の檀信徒組織の積み上げによるネットワークがあったのである。最も打撃を受けたのは真言宗や天台宗そして臨済宗であったという。これらの宗派の僧侶は出家者の修行法や道場の体系には長けていたが、一般大衆に分かり易く仏教思想を説くことには慣れていなかった。明治になり多くの宗派が浄土真宗の布教法を模倣したという。
明治44(1911)年の法然上人700回忌の遠忌は、親鸞聖人の650回忌の年にもあたり、知恩院と東西本願寺が位置する京都に50万人の参拝があったと記録されている。まだ珍しかった鉄道による輸送ということもそれに拍車をかけたと考えられている。一般信徒への布教方法を模索していた真言宗系の宗派ではこれに注目し、弘法大師の遠忌1100年忌にあたる大正23(1934)年に向けて大正14(1925)年頃から大々的な遠忌事業を開始した。教団は大師主義を掲げ大師信仰を巻き起こすことによって浄土真宗に対抗できる大衆布教の路を模索したのである。「宗祖に帰る」という明確で分かり易いキャッチとアイデアは日本仏教全体に大きな変革をもたらした。まさしく遠忌活動が日本仏教を救ったのである。
真言宗による御詠歌の組織化はこの遠忌活動の一環として開始されたようだ。1926年には金剛流御詠歌の指導者が各地を巡回し、御詠歌による一般信徒への布教を進め、各地に講を設立しそれらを組織化して5年後の昭和6(1931)年には講員は16万人を数えるまでになったという。昭和9(1934)年の御遠忌は大成功であった。多くの参拝客で高野山はあふれかえり、御詠歌の奉詠大会は期間中に4回開催され、延べ数千人の参加があったと記録されている。
御詠歌の流儀で最も早く成立したのは大和流である。大和流の創始者である山﨑千久松(1885~1926)が20歳過ぎから各地の霊場を巡拝する中で各々の巡礼地で伝承されていた巡礼歌の節を分類し整理確定していき、大正10(1921)年に大和講という御詠歌の伝承団体を設立した。これが大和流の起こりで、教団が直接関与して設立されたわけではない。山﨑の分類によれば大和節、京節、木揚節、中和讃節、木槍節などの基本十二節があったという。
金剛流設立に大きな役割を果たしたのは曽我部俊雄(1873~1949)である。昭和4(1929)年には金剛流を統括する「詠監」に任命されている。真言宗の他の一派である智山派の教団が昭和6(1931)年に密厳流を創設する。当時の管長である旭純榮が、高野山真言宗の金剛流の活動に刺激されて自派にも御詠歌の伝承団体である遍照講を設立したのである。
*
江戸時代には沢山の巡礼歌の歌詞の解説書が出版されていた。寶永2(1705)年刊行の『観音三十三所霊験記真鈔』を著した松誉は浄土宗の学僧であったようだが、宗派的色彩は鮮明ではなく、むしろ古今集や新古今集などの和歌の教養に豊かで、その意味では通仏教的であるようだ。松誉よりも後に活躍し享保11(1726)年に刊行された『西国巡礼歌諺註』の著者であった厚誉春鶯も浄土宗の僧侶であったと思われる。数々の西国霊場あるいは巡礼歌に関する書物を著述し解説を加えた筆致の中に法然上人の御詠や『観無量寿経』から援引するなど浄土教的な色合いも交えた解説をした。さらに厚誉春鶯に引き続き愍誉知寛というこれも浄土宗の僧侶による『西国巡礼歌奥義鈔』は寶暦5(1755)年の刊行である。いずれも観音菩薩の利益は本地である阿弥陀如来の悲願である、という浄土教的位置づけで解説が編まれていることが特徴とされる。